雑文

 スティーブ・ジョブズが亡くなって、その名講演の言葉をなんども見かけた。あれである、「もし今日が自分の人生の最後の日だとしたら、今日するはずのことを私は本当にやりたいだろうか?」
 英語だと、"If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?" (参照
 人生は限られているし、望んだ人生を生きられる人も少ないから、この手の言葉が心に刺さるのもしかたがないなと思う。それにいずれ、だれにも、人生の最後の日は来る。
 もうちょっと引用すると、その一文とは違う含意も見えてくる。


"I've looked in the mirror every morning and asked myself: "If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?" And whenever the answer has been "No" for too many days in a row, I know I need to change something."

毎朝鏡を見て僕はこう自分に問いかけてきた。「もし今日が僕の人生の最後の日だとしたら、今日するはずことを僕は本当にやりたいだろうか?」 来る日も来る日もその答えが「違うな」というのが多いなら、僕は何かを変えるべきだと知る。

Remembering that I'll be dead soon is the most important tool I've ever encountered to help me make the big choices in life.

自分が早晩死ぬだろうということを留意することは、人生の大きな選択をする際に最善の手段となる。

 一文だけ読むと、今日を最後の日として生きなさいみたいだが、ジョブズがいうのは、日々の問いかけとしてであって、しかも、それが自分の人生の転機であることを知るための手立てであるということになっている。
 ジョブズはヒッピー経験もあるように、ドラッグカルチャーの世代で、そうした点でみると、このRememberingとdeathにはちょっとグルジェフの臭いがするし、おそらくグルジェフをフォローするインテリジェンスは彼にはなかっただろうから、ラジニーシを経由しているのではないかという印象はある。
 人生に転機というのはあるし、その踏ん切りを付けるとき、人生って一度だしなというのはよくあることだ。
 私自身がいつも思うのは、イエスが漁師ペテロを使徒に選ぶとき、ペテロが網をそのまま捨てたという逸話と、この世界の終わりが来たら、振り返らず逃げなさいというイエスの言葉だ。村上春樹の初期短編に、死とは缶にシェービングクリームを半分残すことというのがあるが、人生の転機は、死のように、そのまま訪れる。あるいは死はそのように人を未完のまま放り出す。秋葉原の通り魔殺人で20代の女性が殺されたとき、「え、これでわたしの人生終わりなの?」とつぶやいたという話を聞いた。そういう終わり方をするとは思っていなかったのだろう。
 ここで私は思う。人の人生というのは、そもそも未完なのではないか。なんとかいろいろあがいても、未完のままに終わるというのが人生の実相というものなら、さて、ジョブズのように意気込んで生きるものか。
 ジョブズは人生の転機として語ったが、私が若いころ傾倒した著作家山本七平は、同じ含意のことを逆に説いた。「実業の日本」1977.10.1より。

 私が、いままでの人生において得た一つの教訓として、まず第一に絶対にあせってはいけない、いまの状態が永遠に続いてもかまわないという意識をどこかに持っていることである。
 今の仕事、今の病状、今の状態そういったものが、永遠に続くかもしれないと思って生きなさいといものだ。永遠というものはないから、死ぬまで現状がだらだら続くもんだとまず腹を決めなさいというふうに言ってもいいだろう。
 ジョブズの言葉とは逆のようにも聞こえるが、同じではないかと思う。というか、同じように響かなければ、過つようにも思う。
 自分も免れているわけでもないが、人生苦しいなと思うとき、この人生というのが地獄で、「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」というふうに、まあ、地獄に生きてみるかというふうに死の形を見据えなければ、おそらくなんにも開かないだろう。