終風日報編集後記 日本は特殊な国というけれど

 日本化も悪くないという記事があった。よくある話題でもある。サミュエル・ハンティントンの『文明の衝突』でも日本は独立した文明の扱いになっていた。日本が世界のなかで独立・異質な性質と見られるのもめずらしくない。▼「犯罪が急増することもなければホームレスで街がいっぱいになってしまうほどのこともない。ロンドンのような暴動は決して起こらない。家計は順応し、貯蓄を取り崩しながら暮らしていく。日本はなんとかやっていく。3月11日の大震災の後ですらだ」▼相反した二つのことを思う。そうだなというのと、そうでもないんじゃないかと。いずれにも日本の歴史を思う。江戸時代からそうだったというのと、江戸時代はそうでもなかったんじゃないかと。どちらとも取れる。▼それでも江戸時代から今の日本の特殊性はあったように思う。この数年、おりにふれて江戸の水道のことを学んできてそう思う。江戸という都市の特殊性でもあるが、高度な上下水道があり機能していた。同時代の他の都市とは比べものにならない公共性もあった。▼なぜなのだろうかと再び問う。日本特殊論者はしばしば日本の閉鎖性や単一性を語りたがるが、江戸の公共性はこの都市が異質な他者を多く取り込み共生していくことで確立したものではないか。異質な人々が生きられるように水道が公共として提供された。▼インターネットでは若い人を中心に中国・朝鮮人の差別をなくせという声をよく聞く。わからないでもない。そして昔の日本はそうした差別に満ちあふれていたというのもある。それも事実だ。ところが、戦前も戦後も日本の社会は異質な他者を多く取り込む面もあった。そもそも高度成長期の都市というのは異質な人々の集まりでもあった。市井には今よりも異質な人々が生きていたものだった。