晴れ

 冷えるけど、春という感じ。受験生たちの大半は開放感という時期か。いろいろつらい思いをしている子もいるのだろうな。
 高校時代はあまりいい思い出がない。内申点が高かったのだけど、本番の試験でブレがあるといやだと思って、いちランク下の高校を選んだら、なんか一種の受験校みたいでなんというのか、そういう感じの子が多く、また先生もそういう感じで、なんか失敗した。
 と、思っていた。が、ふと昨日、いやそうでもないなあ、いろいろ友情とかあったじゃないかと思いだし、なぜその思い出が変質したのかとふと思い当たった。大きな友情の事件があったのだ。もちろん、記憶のなかでそれを封印していたわけではないが、その情感を思い出そうしない抑制機構があった。
 こうした抑制機構は両親にもある。
 50歳過ぎて生きてみると、いろいろ少年時代青春時代の思いは変わってくる。失恋とかも、なんのことはない、ただの汚い人間関係だったなと思う。どこかで自分の純真さを思って逆に自罰的に偽悪化している部分があるが、男女とも人間は普通に汚いもので、とりわけ自分がどうというものでもないなと思い直す。いや開き直っているのではなく、自罰的に偽悪化してもそれで純粋さみたいなものが得られるわけでもない。
 以前はくどくど書いてきたが、自分は人生の負け組で、まあ、大半の人はそうなるという意味で実に凡庸な人生であった。というか、人生の意味というのはそういうものでもなかったという、途中決算みたいなものはできる。社会的に成功した人々の内面の修羅もちらちらと見るようになった。
 森有正が、大切なことはみんな聖書に書いてあると言っていたが、まあ、そうなんだろうという気もする。論語に書いてあるといってもいいし、仏典でもいいのかもしれない。それらに共通するなにかと真理を求めるという意味ではなく、生きてみると、シンプルな原理というものはあるなということだ。