快晴

 じわじわと年を取っていくようでやなもんだ。
 昨日Twitterで政治に関心あるなら政治家やらないのかと問われ、少し考えているとして、まあ、うまく通じなかった。まあ、釣りみたいなものだったのではないかな。
 自分に政治家の資質があるとは思えない。人を率いていく力がない。その点はなんだかんだ言っても政治家さんたちはすごいと思っている。
 野田財務相が国際会議で通訳のイヤホンを充てているのを英語がわからんのははずかしいみたいに指摘する声もあったが、あのレベルの英語を誤解無く理解できるには米国で相当の学歴を詰んでいないと無理だろう。野田さんはよくやっているほうではないかと思いつつ、反面、そういうエリートがあの立場に立つこともないのだろうし、立たせると人を率いる力がなかったりする。だいたいにおいて語学屋さんには人徳がないものだ。
 以前少し書いたが、私は恩人が菅さんの支援をしていた手前、彼の立候補のころから知っている。二枚目で市川房枝をついで(そのことでうっすら左翼で)期待ある青年に老人からは見えたのだろう。その彼が老人になっていく姿を見ている。それは、普通に政治というものに期待をもった青年がうち崩れていく姿でもある。政治とはああいうものだ。対して、小沢さんもそれなりに長く見てきた。毀誉褒貶の多い人だったが、小沢さんの立場というのをいつもそのなかで推測した。彼は政治の鬼になる覚悟のできた人だった。しかし。
 政治というのは理念のように見えて理念ではない。共同幻想という悪魔との取引は必要になる。
 そこから引いて結局は隠者となった吉本隆明は、しかし1980年代までにはまだ銃を取る覚悟でいた。それも崩れた。山本七平はそもそも世に出るつもりはなかった。ただ神が彼を残した責め苦だけを負っていたらあそこに辿りつてしまった。
 森有正だったか小林秀雄だったかあるいは吉本隆明だったか、原典を忘れた。私の思想なのかもしれない。あるいは三者にうっすらとある思想かもしれない。人の人生は必然的に敗北する。敗北することがその意味だということを理解しなければ人生には意味はない。まあ、それで自己慰撫していてはだめだと思う。吉本は近年、みなさんも文部大臣や総理になったつもりで考えてごらんなさいと言っていたが、それに私は反感をもったが、実際にこの日本を菅さんの位置で背負えるかといえば、とうて無理だ。そのとうてい無理だという思いが、政治家でもやってみるかなという思いでもあった。必然的に敗退することをどう織り込むのか。
 龍馬伝を見ていて、龍馬のように明治を見なかった者はあの革命の半分しか見てないだろうともつらつら思う。西南戦争で武士階級が平民に倒されてあの革命は成功し、地租改正でコメという貨幣を駆逐して近代化した。勝海舟は敗北の部分は黙っていた。福沢諭吉Twitterよろしくツッコミを入れた。 「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張」世人は誤解するが勝には勝の敗北の意味の思いがあった。