それを国家がやると惨事

 ⇒国境,国民,国家――「民族自決」批判 - Danas je lep dan.

 だがしかし一方で,民族の寿命は個々の人間に比するなら長い。また,「民族はナンセンス」としてその枠組みを完全に無視するのであれば,それは現実に民族の名の下でおきている抑圧や差別といった社会問題に何ら対処できないことを意味する(マグレブ系の調査が碌にできていないフランスを思え)。
 ではどうするか。ある程度堅固な,しかし流動的な枠組みを念頭に置かねばならない。民族は可変的なものだという前提のもとで,しかし個々の民族の自己保存は基本的に承認されねばならない。個々の人間がいずれ死ぬからといって,社会福祉が不要とはならないように。ゆえに同化主義は排斥されねばならず,また同時に「民族」の枠を固定的で永続的で本源的なものと見なす政策も破棄されねばならない。

 それを国家がやると惨事。
 参考
 ⇒[書評]沿海州・サハリン近い昔の話―翻弄された朝鮮人の歴史: 極東ブログ
 ⇒パチコフ: 極東ブログ
 話、元エントリに戻って。

まずは「国家」を上位に置こう。その下に「民族」を据えよう。

同化政策に晒されてもいないし,他民族の言語を公用語として習得させられているわけでもない。これは,そんな人間の構想したお気楽なヴィジョンだ。けれど,これが俺の思いつく限り一番マシな方法であることも確かだ。俺の脳味噌ではこの程度しか捻り出せない。

 ご参考までに⇒なぜフランスはスカーフを禁止するのか: 極東ブログ
 補足すると。
 国家は市民権を確立する道具として最小化し、その道具によって市民権から、文化・民族・マイノリティー許容の原則を確立すること。