徴兵制云々でTwitterでつぶやいた

 このあたりから。⇒Twitter / finalvent: 徴兵制はがたがた不毛な話題になるけど、有事に市民が武 ...
 ついでなんでちょっとつぶやきをまとめておく。
 「徴兵制」という言葉が出ると、戦後日本では脊髄反射のように不毛な話題になりがちだが国家や地域の有事に市民が武装できるという市民の権利の話はいつも抜け落ちる。(徴兵制は国家が課した義務ではあるし、それが一義の側面ではあるが、その国家は市民契約によってなりたっており、その義務は市民契約からの派生である。)
 そのようなものは「権利」なのか? そんな国はあるのか? スイスがそう。というところで、ダンコーガイ氏が「米国も」とツッコミ。
 米国の場合は、有事と限らず市民が武装する権利を持っている。これは米国憲法に記載されている権利でもあり、革命権にも関連する。
 もともと「市民」による国家は、基本的には、革命=市民暴力を介して生まれてきたという歴史的な背景もある。その意味合いからすると、武装化ができることは市民の権利以上に、市民というものの定義に属するかもしれない(市民は城壁の内部にいる)。
 このことは、別の側面では、市民が国家の戦争の主体になるということに近い。具体的には「傭兵を使わない」「市民自らが意志をもって血を流す」という含みがある(徴兵はその国家を介した公平さでもある)。
 基本的に、戦闘というのは歴史的にも傭兵と国家の関係が緊密で、徴兵制による国民国家が主体的に戦闘員になるというのはまさに国民国家たらんとするイデオロギーに近い。
 このことは近代国家の黎明期においては戦闘技法や戦闘の意義にも関連して市民を統率して傭兵を凌駕する可能性があったが、現代戦においては傭兵や戦争を職業とするプロフェッショナルのほうが効果的。日本において、徴兵制を導入するとすれば、戦闘的な効果では意義は薄い。(死者が出すぎて、福祉国家とのバランスも取れない。)
 スイスにおいては、市民教育の一環として、武装の権利が教えられる。と、同時に愛国心から市民が武装化するとき(実は話が逆で市民とは武装化する愛国者のことでもある)、非戦闘員としての保護が受けられないことも教えられる。
 戦後日本の反戦運動や米国のベトナム反戦主張などでは、「戦争の本質は殺人」とかいう命題が大書される。文学的な表現としてはそういう側面もあるし、個々の戦闘ではそういう側面があるのは否定しがたい。が、近代戦争で問われるのは、戦闘のリソースであって、殺人ではない。劣化ウラン弾が問題なのは、タンクを打ち抜くことでタンクのリソース破壊以上にその操作員を殺害するため。同様に、戦闘のリソースではなくなった敵兵は保護の対象になる。こうした近代戦の基本が周知されなかったことが日本の戦争の悲劇を増加させてしまった。蛇足でいえば、こうしたことを徹底させるのが「軍国主義」というものでもある。つまり、軍とはなんであるかという限定性を明確にすることは重要でもある。もっとも、軍には本質的に政治性への侵食の傾向があるという面もある。その葛藤の事例としては、朝鮮戦争参照)が興味深い。
 戦争はそれ自体が悪という吉本隆明のような思想もあるし、戦争とは国家が市民を拘束するための道具であるというようなシモーヌ・ヴェイユの思想もある。が、実際、現実の世界では戦争は起きており、その現実を整理するために正戦論は議論されなければならないし、正戦論のような戦争の規律の確立がなければ、非戦闘員保護なども生じない。
 逆説的に言えば、現代の戦争の問題は、正戦論の延長でもあるだろうが、市民の愛国心が試される武装化が、戦闘能力における非対称性になることかもしれない。特に米国の最近の戦争のように、自国市民の血が流されにくい空爆重視や傭兵や戦争のアウトソーシングなどは、その面で問題だろう。し、その非対称性が、テロ・ゲリラを生み出さざるをえない状況があり、このあたりは、建前の正戦論の矛盾でもある。