薄曇り

 2月も下旬。ありゃりゃという感じだ。このところ睡眠サイクルが乱れて、昨晩も寝付かれずいろいろ思っていた。というか、奇妙に青春のころの早春のこと、いやある感覚を思い出していた。自分が若かったのだというのが、とても不思議な気がする。それから、今でもそうだが、自分がよくない人間であったなという後悔がいろいろ押し寄せる。理屈で自分を弁護もできる。ひどい運命だったじゃないか、いや他人と比べてそんなよくないわけでもないな、とか。しかし、よくないことはよくない。これは失笑を買うかもしれないが、私は他者に啓蒙的なことはしたくない、いやそうでもないかみたいな矛盾によく悩む。概ね人にうまく通じるように説明はしないようだ。ここも微妙で、これ以上言っても理解の感受性がなさそうだという人をどっかでスパっと自然に切ってしまう。いや人を切る、というのでもない。だめだな、これは、またか。みたいな感じで自分が引き下がる。以前もうだうだ書いてきたが、私は子供の頃から孤独にさせられる人だったので、他者に自分の心なんか通じることはないという前提で生きてきた。そして思えばそうした一種の怪物としてブログなんぞを書いている。もちろん、たいしたブログでもないが。そういう孤独の一種の受動性みたいなものは、おそらく私の他者や社会、自然、運命というものへの憎悪が根にあるだろうし、それは人の基本として愛が欠落させられたことのありがちな反動でもあるのだろう。とはいえ神のご加護か長く生きてみると、それも凡庸なことだし、凡庸な人格形成の一つにすぎないこともわかる。私は自分が凡庸だなと思っている、あるいはそう思うことで、運命への憎悪のようなものを中和させようともしている。それらすべては思念の虚しい空回りだろうが。そういえば昨日ツイッターで「親の小言はウォッカのように後からくるみたいなもんですか?」ときかれ、「内容はたいしたことなくて、そのときの親という思い出に、泣けるよ」と答えた。人にとって親というのは特別な存在だし、その特別性は双方の思い入れというかある種生物的な情念にも依ってもいる。が、それらすべてが凡庸なものでしかない。親は子を理解しないし、子は親を理解しない。その関係のどちらも実はなんら特殊性のようなものはない、にも関わらず、そのような冷たい世界のなかでは生きられないし、人格の根の深いところにそれらの暗いものがたまっていく。自分も親もあるいは親である自分というものも、ただ凡庸に運命に翻弄されていくだけの、悲惨といってもよいような存在だし、そうした剥ぎ取られた弱い存在としての場を覆うことなく露出させているのが、親の小言のようなものだ。その虚しい営為のなかから逃れることなく、自分がこの世に存在させられたというのは、しかし、泣けるようないとおしさというものはある。あまりとんでもないことをいうまでもないが、この暗黒の絶望の宇宙に向かって、最初の生命が永遠を生きようと無謀な決意をした何かが、今でも自分の生命を支えているのだろうとは思うし、その生命の無謀さを引き継ぐことに愛情のようなものを思わずにもいられない。