曇り

 ああ、冬に舞い戻り感。朝ぼーっと考えていることは多い。なんかついったに書いてしまったけど、「唯物論的には生命はオートマトンとして規定してよいはずだが、そのinitial stateを想定するとID論と見なされるのだろうか?」。生命というのは、現代科学的には聖霊でもないから(生気論排除)、機械仕掛けのロボットなんだが、であれば、それをcharacterize可能というか、それが科学になるのだが、そこがむずかしい。で、「生命がオートマトンではないなら、それはなんだろう、という問は、すでに科学ではないように思える」となる。生命のモデル化をなんとなく科学は避けているのは、広義のダーウィニズムに依存しているのだけど、これは適者生存ということで、世界側がオートマトンになる。「ダーウィニズムの自然選択は、自然の内部にオートマトンが措定されるだけでは?」と。ほいで、「これらを回避するには、生命そのものが生存バイアスとなるが、これも、認識主体を生命上の思念とするなら、矛盾」というか、まいどの人間原理が出てしまう。まあ、このあたりをいつもぐるぐるしているわけだが、それでも、いつのまにか、マイケル・ポランニの暗黙知から創発というスキームも同じくらいの欺瞞じゃないかなとは思うようになった。話が戻るが、生命も「私」という思念も生存バイアスでしかない、というと、そうではない状態をどう措定かつ思念することはできない。このあたりの引っかかりは、「死」の奇っ怪さというより、「私」が無から発生したことの奇っ怪さによっている。というか、眠りと死の違いは目覚めることでしかないのに、なんで俺は、いま、この宇宙で目覚めているんだろ?