晴れ

 やや薄曇り。連休のせいか妙に静かだ。夢はいろいろ見たが忘れた。この二、三日クレヨンしんちゃんの作者の安否が問われていた。崖からの転落死が確認された。私はこの人をまるで知らない。漫画についてまるで知らないわけではないが一話も見たこともない。絵が受けつけないのと、ギャグも合わないというだけで、私に多い無関心領域の一つということだ。ニュースは少し気になっていた。なぜ崖から。自殺ではないようだし事件性もないようだ。崖はしかし覗き込みたくなる心理に駆られるので、こうした話を聞くと子供のような恐怖を覚える。また、人の死というものを思う。人の境遇の様という意味では運命というものはあると思うが、死に至る決定性としての運命というものはあまり考えない。理性的な領域を越えるなと思う。世人は棺覆って人の価値は定まるともいうが、私は親鸞にそれなりに長く触れていたのでそうも思わない。人の最期は偶然であり、その人の価値とは関係がない。というところで人の価値などあるのかとふと思う。いやありもなしないのだというのはあたりまえのことだが、それでも心にひっかかる。昨日だったか、私が「孤独」と書いたら、ああ、これか「この人の記事には基本的に興味ないが、たまにはブクマ米残しておくのもいいかと思って、書いとく。『孤独に切り開く』などという言い回しがもう芝居がかってて趣味悪いんだよなー」とコメントをいただく。ありがとう。普通は趣味の悪いものには言及しない。私もできるだけ自分が関われるレンジを広げようとしたが、どうしてもうまく行かない限界があり、そこでは沈黙する。ただ、限界が見えると、ああここが私の限界かと動揺してドツボることも多い。finalvent打たれ弱いとも言われるが、ネットを長くやっていると打たれ弱さは独自の意味合いがある……というところでまた孤独とネットというものに戻ってくる。私は私を自己弁護したいわけでもなし、そう主張したいわけでもない。ただ、それをぐっと飲み込むか、飲み込まないかという限界で、揺れている。たぶん、それが自分ということならしかたないなと思う。というか、その捨てかげんは、微妙に自己愛の矛盾した自己焼却でもあるのだが。