買う本がないとか

 ⇒買う本がない

買いたい、読みたいという本がなくなってしまった。
八重洲ブックセンターにいたら昔はいくらでも時間が潰せたのだが。

 東京に戻って、私も八重洲に行って、あれ?と思った。我が青春の新宿紀伊国屋もそうだった。それほど楽しくない。神田古書街は面白いが、どうして若いころはこの街に終日いても足りないと思ったのだろうかと、いぶかしく感じられた。沖縄にいた頃は夢のジュンク堂だったが、2時間もすると疲労感はあった。それでも、ジュンク堂はすごいなとは思ったし、今でも好きだが、2時間もいられない。
 私については、「買いたい、読みたいという本」はある。この数年古書市場が充実しているので、ある意味では天国というか、昔読んだ本を探して買って再読する。中学生のころ、結局人生をこの本で変えたなという本を再入手してうるうるしたりもする。
 ああ、ちなみにその一つはこれですよ⇒「 愛はいずこに (1965年): C.マーシャル, 堀田 勝郎: 本」
 お勧めはしませんよ。キャスリンの旦那のこれも気になるけど⇒「 ピーターという男―妻の描いた夫の肖像 (1954年): キャスリン・マーシャル, 村岡 花子: 本」
 私はエヴァンジェリックな信仰は持たなかったけど。
 話戻して。

たぶん、くだらない本を思い切り買えないことが少し寂しいのだと思う。

 その感じはわかるというか、ずれてわかる部分もあるだろうけど。
 ブログを初めてから自分の経済学の知識といわゆるリフレ派さんたち随分違うので、というか、私は時代もあってマル経サミュエルソン経由ケインズというくらいで、フリードマンはへぇと見ていたが、どこかで国家が貨幣に介入するのを好まない。そのあたりの感性からだいぶ抵抗感はあったが、それでも自分なりに少しずつ理解しようとはしてきた。他の分野にもそういうのがある。(自然科学系の知識というか常識は、時折リニューしないと、ええ!なことになる。)
 恥ずかしい話だが、自分より若くて切れる知性に、そうはいってもね、君たちバックボーンの感覚がなってないよみたいな上から目線みたいな感覚がどうしてもあったが、それも抜けてきた。米人の、学に対するラフな感覚に近い。優れているならそれでいいんじゃないみたいな。(そして自分のバックボーンの感覚は通じなければ通じないでしかたないな、とも。)
 弾さんに腐しではないけど⇒404 Blog Not Found:哲学は哲学者より簡単 - 書評 - 中学生からの哲学「超」入門
 ああ、弾さん、竹田青嗣も知らなければ、哲学の素養もないなとか思う。で、直接そう言うと、いやそれでなにか?的なものがあるだろうし、そこをさらに縷説しても始まらないだろう。イヤミとか腐しで言うのではないよ。
 たとえば⇒「 現代社会と「超越」―竹田青嗣コレクション〈4〉 (竹田青嗣コレクション (4)): 竹田 青嗣: 本」
 ここに竹田と廣松の対談があるのだけど、これがなんとも絶妙なものになっている。私からすれば竹田のフッサール理解が正しい。で、廣松はボケ。ところが、この対談を今読み返して思うことはまったくそういうことではない。竹田の、今の心中というものがじんわりわかる。そういうところに、学ぶということの絶妙なものがある。快楽でも正義でもない。諦観というのに近いのかもしれない。
 竹田については私が理解する限りでは⇒「 人間的自由の条件―ヘーゲルとポストモダン思想: 竹田 青嗣: 本」
 このあたりが頂点であり、読めばわかるけど、依然竹田さんの読みは粗い。しかし、そういうことでもない。なんというのか、きちんと知性が辿りつく誠実さのようなものを思う。
 話を戻すと、本を読むというのは、読み続けることであり、そこで、なんというか、諦観に近いようなある何かを自然に感得する過程でもある。
 淫素さんの⇒はてなブックマーク - 買う本がない

Midas 当然の報い。「ぎりぎりのレベル」←これが大間違い。本はそもそも「ちょっと背伸びして」読むもの。子供の頃「家庭の医学」に何が書いてあるか全然わかんなくても女体の神秘にドキドキわくわくしたはず。

 それもわからないではないが、そしてドキドキが私より少し下の世代の感じが伝えているようにも思うが、背伸びというより、ある年代からの読書は、知性のメンテナンスというのと、自分の実人生を生きる・考えるということと一体化してくる、ペースメーカーというのかな。
 自分についていえば50代の思考とはこういうものかというのを先達から学ぶ。具体的に彼らの思考の産出は時代制約もあり批判はたやすいが、問題は、限定された生き方のなかでどう考えたかという軌跡が重要というか。
 だから、その生きる様のなかでどう読書があるか、つまり、知性の対話があるかという問題になる。
 このあたりは、今の30代くらいを見ていると、書籍=情報=知識、みたいに、あるいは知識=正義、みたいな連合があるように思うが、そうではないんだよという部分の味わいだ。
 ただ、その分野をどう読み進めるかというのはあり、

IT 系なので IEEE Computer Society にまずは入ってすぐ辞めて、ACM Professional Membership でKnuth の昔の投書とか、入手して読んだ。そのうち Google Scholar でネットサーフィンをしては、arXiv や著者本人の公開しているプレプリントをこっそり会社でプリントアウトしては読むという悪癖に染まった。

 この感覚は、その文脈でよくわかる。「Knuth の昔の投書」あたりに、いい感触がある。
 ただ、ちょっとまた浅薄な批判をくらいそうだけど。

最後に買ったのは川端の『掌の小説』か、買いなおしとわかっていた『ジャッカルの日』か。家内にしてみれば私はまだ本を買いすぎると思うけど。

 ここは要注意かも。人によっては文学と縁無き人生かもしれないけど(それに文学にはいろいろあるけど)、人の運命を支えてくれるのは実際的な愛情の関係と、そして文学だと思う。そして、ちょっと残酷だけど、本物の文学を読むにはそれなりの日頃の読書力みたいのが必要になる。斎藤孝とかいうような単純なものではない、また、批評家さんたちがさらさら知的に書くようなものでもない文学の理解力というもの(柄谷でいうなら奥さんとの関係史の思いのような部分とか)。まあ、それは、しかし、結局、なんというか読書の神様みたいなものが、その人を文学に追い込むからその時のことかもしれない。
 話が前後するが。

ScienceDirect とか JSTOR にアクセスするために国立国会図書館新館地下まで足を運ぶ稀な機会を心待ちにするようになった。

 というなら、まず購入すべきは電子辞書だと思う。しかも3万円以上の。具体的にサンプル英文を使って試すとよいと思う。
 特にお勧めはしないけど私はこれにCobuildを入れて使っている⇒「 セイコーインスツル IC DICTIONARY SR-S9000 電子辞書 音声対応 シルカ・カードレッド対応 高精細VGA・TFT液晶 英語モデル」
 ま、なんか上から目線みたいく偉そうなことを言ってしまったけど。けど、本を読むということが、生きるということと近似しているなと理解できるようになるのは、中年からのことだと思う。