この問題ね

 ⇒ ふるい歌が聞こえた - サキュバスの晩餐

そうかこのぐらいの時代から 男性の皆々様は女の子に「やってもいいですか?」とお伺いをたててから やるようになったのだな、これがのちに歴史で語られる第538次恋愛革命である!か、どうかは知らない。(嘘のごさんぱち!)

 自分の記憶では、団塊全共闘世代の青春物でもそうだし、戦後・戦中もそうみたい。というか、漱石の「それから」なんか、壮大な「やってもいいですか?」みたい。
 で、この年こいて言うと、男子が「やってもいいですか?」というのは、たいていはそういう状況を女子が設定している場合だと思う。そして、この設定において、「やってもいいですか?」と言ったらたぶんその時点で負けている。
 あるいは、処女信仰があった時代はそれ一種の、一生捧げます的な意味があったかも。
 いつの時代もやっている男子はこんなこと言わないです。

自分の中で、愛と欲望の違いがよくわからない。憧れが 好奇心なのか 愛情なのか 肉欲だけなのか?自分の感情にほかならないのに わからない。

 愛というのは責任の伴う飼育型ゲームみたいなものだから、サンクコストがでかい。ので、サンクコストを考えるくらいひんやりした視点があれば違いはわかる。肉欲はただのリスクなので、リスク計算が重要。多項式的。

動機や理由付けはあとからもっともらしく大脳がこさえてくれるだろうけれど、魂を揺さぶる力がどこからくるのか、言葉では説明がつかない。相手を損なうとわかっていたら好きになるべきではなかったのにどうしようもない、とか、そういう...悶々煩悶反芻。

 「もっともらしく大脳がこさえてくれる」はそのとおり。で、「魂を揺さぶる力がどこからくるのか」はこれはどうしようもないと思う。愛というのは時にとても不道徳で反社会的なんだけど、その内情からすればもうどうしようもないというのはあるときはある。正義とか偉そうなこと言っている人たちはそういうものに人生遭遇したことはないんじゃないか。