批評トハ

 無私ヲ得ル道デアル

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小林秀雄全集〈別巻2〉無私を得る道: 白洲 明子
 ⇒「 小林秀雄全作品〈別巻3〉無私を得る道(上): 白洲 明子: 本」
 ⇒「 小林秀雄全作品〈別巻4〉無私を得る道(下): 小林 秀雄, 新潮社: 本」
 まあ、別段読むほどのものではないけど。
 で、批評トハ無私ヲ得ル道デアル、とはなんぞや?
 自分なりに小林秀雄を読んできて、自分なりに理解したこととしては、いわゆる批評というのは、対象と批評家というのがあり、そして、その批評という作品のトリアードを介した出版と解されるわけですよね。
 まあ、それはそうかな。
 で、それはそれとして、おそらく小林はその部分については、無私がもたらす信に置いたのだろうと思う。つまり、無私が得られたらそれは読まれる、くらいな。
 で、無私だけど。
 これは対象と批評家の関係において、批評家の私が無くなること。
 なので、禅とか持ち出して阿呆な解説が出てくることもあるし、小林自身もその傾向がないわけでもないけど。
 対象と一体化するのではなく、対象が語りかけてくるものに自己が呼応しつつ、まさに「私」が呼応する部分を無くすること。
 一体化というより、対象の持つ美というものが、「私」に受肉してくるありかたを表出すること、というか。
 普通は、批評というのは、対象を私が評価する。そして、それに様々なメトードがあり、様々な意匠としての表出がある、けど、それを小林は、表出とは見ない。
 対象に、「私」が奪いされるまでに肉薄するその力を、捉えることで私を超えるというか。
 普通は、だから、「感動した!」で終わるけど、それは何か?を表出するということ。そしてその表出が、結果的に自己表現になるとしても自己が無となるような圧倒性を映し出すこと。
 とま。
 では、私はどうか、と。まあ、私は批評家ではないし、この年まで生きてみると、必ずしも小林的な人ではない。まあ、いろいろ。で、私はどう考えるか。
 私は、人の肉体的な普遍を見ることではないかなと思う。
 理論とか、そういうものは、なんというか、人に取り憑く悪霊みたいなものだし、いずれもっと巧緻な電算機ができれば移植可能だろう。某ブログのエントリくらいは書いてくれそうになるだろう。で、そうではないもの。その人の人生に現れるある圧倒的な力、肉体的なエロスみたいなものに、対象として現れるなにかを写し取ることなんじゃないかなと。
 なんか、言うだけめんどくさくなりますね。
 別の言い方すると、AVとか、まあ、マジで見たことはないんだけど、なぜその女の造形・演技・存在・肉体に、自分の魂が圧倒的に奪いされるか、という部分で、記号的ではないもの。つまり、美形とか、巨乳とか、そういうラベルできそうな、人工知能処理できそうな程度の言葉になる部分を超えて、自分の身体にうずき、身体を通して自己に発話を迫るような何か、そしてそれが持つ普遍に向き合って、それを表出すること。
 まあ、そんなふうに思ってますよ。