柿沢弘治、死去

 ⇒柿沢弘治元外相が死去 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 元外相の柿沢弘治(かきざわ・こうじ)氏が27日午前、食道がんのため都内の病院で死去した。75歳だった。
 密葬は近親者で行い、お別れの会を3月1日午前11時、東京都中央区日本橋蠣殻町2の1の1ロイヤルパークホテル3階ロイヤルホールで開く。喪主は長男、未途(みと)氏。

 お年なので寿命の部類ではあるだろう。

 柿沢氏は旧大蔵省出身。1977年に旧新自由クラブから参院選東京選挙区に出馬し、初当選。80年に衆院に転じ、連続当選7回。
 94年4月に自民党を離党し、自由党(当時)を結党して党首に就任。直後に発足した羽田内閣に外相として初入閣した。95年に自民党に復党したが、99年の東京都知事選に党の方針に反して出馬し、同党を除名された。2003年衆院選で落選し、政界を引退していた。

 「旧新自由クラブ」という表現が面白い。これも時代だなと思う。
 政治家としての末路を考えさせられる。
 ⇒柿澤弘治 - Wikipedia
 絵に描いたような閨閥とも言えるが。
 記述中、柿沢未途のリンクはなくにはウィキペディアの項目はなさそうだ。

長男の未途(みと)は元東京都議会議員(2008年2月、飲酒運転による自損事故を起こし辞職)。

 ⇒柿沢未途とは - はてなキーワード

柿沢弘治元外相の長男で民主党の東京都議。
江東区選出
昭和46年ベルギーブリュッセル生まれ
東大卒
NHK記者
2008年2月9日、飲酒運転で事故を起こす。

 意外に若いなとあらためて思う。元NHK記者にも思うことはあるが。
 ⇒310kakizawa.jp

飲酒運転による交通事故という事の重大性に鑑み、すでに2月12日、都議会議員の辞職願を提出するとともに、民主党の離党届を提出いたしました。
軽率な行動から取り返しのつかない事態を招き、ご支援いただいた皆様に大きな失望を与える結果となった事は、悔やんでも悔やみ切れません。
このような事を起こしてしまった自らを真摯に反省し、心からのお詫びを申し上げていく事によって、この罪を償って参りたいと考えております。
本当に申し訳ありませんでした。
 
平成20年2月20日
柿沢 未途

また、お父上の柿澤弘治先生との長いお付き合いの中で、皆様と共に築きあげた信頼の二文字をも、深く傷つけてしまいました。
彼がこのことを肝に銘じて、人間としての償いとけじめをつけるための今後の行動を、見守っていく以外に道はないと思います。
つきましては、この際、柿澤未途後援会を解散することにより、彼に未来を託して投票していただいた、すべての皆様へのお詫びとすべきと考えました。
どうか皆様のご理解を心よりお願い申し上げます。
 
平成20年3月
柿澤未途後援会会長 長谷川 健治
副会長 渡邊  隆

 ⇒ヌコニュース 【社会】 民主党・柿沢都議(元NHK記者)、なんと雪を食べて「飲酒運転」ごまかそうとしていた…事故の責任とり、議員辞職

 事故当時、東京都内では雪が積もっていましたが、警視庁のその後の調べで、柿沢都議は、事故現場に警察官が駆け付けた際、現場周辺に積もっていた「雪」を食べていた事が新たに分かりました。警視庁は、アルコールが検知されないよう、雪を食べて飲酒をごまかそうとしたとみています。
 柿沢都議は、近所の焼き肉屋で秘書らと酒を飲んだ後、同じ都議会民主党の同僚の女性議員の自宅に車で向かう途中だったということです。

 愚かな人だと失笑するのはたやすいが、37歳であろうか。好事魔多しとも違う、なんというのか、難しいものを感じる。
 永田寿康は昭和46年の生まれで柿沢未途の二歳くらい年上、だいたい同じ年代かと思う。別に似たような境遇で似たようなということではないが、時代が見せるある風景というものが彼らにはあっただろうかと思う。
 自分は器量の小さい人間なので、その分、悪にすべりそうな機会から免れることが多い。それでも、なんでこんなにつらいんだろうと思って生きて来て、そして見える光景や、なんてこの世は理不尽なんだろうと見える光景が、ふと自分に立ち返らせることはある。
 生きることは難しい部分があるが、難しいからどうなるというものでもない。40歳前の人なら再起もあるだろうし別の人生があるだろう。
 話がそれたが、親としての柿沢弘治はどうだったか。柿沢の往時を私は覚えているが美男子だった。