今日の1冊 「金閣寺」三島由紀夫
木村政雄さんの私の1冊「金閣寺」三島由紀夫 | NHK 私の1冊 日本の100冊
木村政雄については名前くらいしかしらない。
⇒木村政雄 - Wikipedia
今回は、ようするに、100冊のうち1冊は三島を出さなくてならないだろうということで、どう直球的にクセ弾を出すかという揚げ句の出来だったのでないだろうか。辛うじて合格ラインというか、三島の問題を際どく逃げたという印象だった。
木村政雄が三島を読めているかについては言うに野暮に思えるし、実際語るところを聞けば、あの時代の、つまり団塊世代の述懐という以上はない。
三島由紀夫については、私はまだ大きな課題を果たしていない部分があるが、ざっくりいうと、昭和という時代の特殊な心の傷ではあってもそれほどたいした文学者ではないなと思うようになった。こういうと、変な弾が飛んでくるかもしれないが、文章がうまくない。一種の美文というか、表面的にはきれいに書かれているし、教養、素養もあるのだが、実は文章というものが要求する肉体の感性がこの人はごっそり欠けている。そしてそのことを本人が知ってもいただろうし、そこから逃れることはできなかった。このあたりは岸田秀がうまく書いている。ただ、岸田の意見にまったく同意というほどでもない。
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血肉を備えていない人形劇, 2006/1/20
By k-0 (埼玉県) - レビューをすべて見るこの小説は「三島由紀夫」というブランドネームで不当に高い評価を受けすぎているのではないでしょうか。もしも見知らぬ新人がこんなものを書けば、誰だって馬鹿にするに決まっています。これは三島の小説の中では最も読みやすく、クセのない小説なのですが、見かけ上のわかりやすさとは裏腹に、実は彼の作品の中で最も読者を排除した作品なのではないかと思います。極端なまでに登場人物の内面描写を削り外面だけを描こうとする文体なので、登場人物の誰ひとりにも感情移入することが出来ません。登場人物は単に恋愛物語をなぞる操り人形に過ぎず、どんなに明るい太陽の下で物語が展開されても、ちっとも「血肉を備えた人間」が伝わってきません。外見が爽やかすぎるほど爽やかな小説なのですが、その分、ものすごく「うさんくさい小説」だと思います。これを書く前にギリシアを訪れた三島が、ギリシア的な明朗さを日本に移し替えて「神話的世界」を書こうとしたという「意図」だけはわかりますが、それにはもっと物語を膨らませる技巧が必要不可欠でしょう。「小説の技巧」には優れていた三島も、「物語の技巧」には必ずしも恵まれていなかったようです。
加えて、潮騒と伊豆の踊子については、実際には映画という文脈のほうが大きい。これについては誰か論じているのではないか、斎藤美奈子あたりが悪態つきまくって楽に書けそうな話だが。
三島の文章論というか小説論としては面白いには面白いが。
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金閣寺についても、実際には、潮騒のように、偽物でできている。NHKでは6年の取材とナレーションが入って、実際の事件と関連があるかのようだったが、事件との関係はほぼないと言ってもいいだろう。
![]() 金閣寺 (新潮文庫): 三島 由紀夫 |
最悪の作品, 2002/10/5
By セロリ (高知市) - レビューをすべて見る金閣寺の放火という実話を元に、三島由紀夫自身が取材を行って、発表された作品。
問題は、この犯罪の動機の解明だが、劣等感、その他のもっともらしい動機の説明が行われているにもかかわらず、理屈で考えただけの目的と手段、という関係の説明の枠を出ることが出来ず、どうしても、迫真性に乏しく、読者の感性に訴えるものが弱い。そもそも、この種の犯罪に理解可能な動機が存在するのかどうかさえ、疑わしいのに、それを前提として、議論しているため、不可解な印象が残る。
彼の作品群の中で、最悪の部類に入る作品であろう。
では何の偽物だったかというと、これは三島本人がゲロっていた。小林秀雄である。実際に小林との対談でしれっと言っている。このあたりの三島の感覚は、今のはてな村のバカ俊英と似たような若さがある。三島としては小林の美学に彼自身の、お変態な思い込みを込めて統合したのを、小林に認めてほしかったのではないか。
小林秀雄という人は、さっくりそのあたりは作品のなかでは見抜いてもすらりと忘れて、三島がそう訴えるのを、ぽかんと聞いていたことだろう。たぶん、小林は三島のなかに女の匂いがないことをすっと感じたのではないか。
金閣寺の、お変態な思い込みが、ある意味でもっとも美しく描かれているのは、妊婦を蹴りまくるあたりだ。あれはある意味では戦後の風景でもあったが、もう団塊世代以下では歴史感覚としては読めないだろう。文学的にいうなら、ド・サドの系列でもあり、ああ、そういえば裁判がという文脈もないわけでもない。
金閣寺については、綿密ともいえる作品ノートが残されており、私が高校生だったか、新潮社のパンフレット冊子に連載されていたので読んだ。なるほどというかこの作品が設計に基づいて書かれていることがわかるし、これを付き合わせるといわゆる修論とか書きやすいのではないか、とも思ったが、おそらくこの作品それ自体にそれほどの意味はない。