晴れ

 また暑い日になるのだろう。夢はいろいろ見たようだが覚えていない。いろいろ心の中を見つめる。特に答えはない。混沌としている。死んだパウシュ教授のこともいろいろと思った。彼はすばらしい人間、だった、が、なにか腑に落ちない。その部分の言い得ないもどかしさを思う。
 私は世界の傍観者である。人生の傍観者でもある。あまり意味のないリアルな映像のなかを生きているといった感じもする。私の目はカメラである、と。だが、不思議なことにこの世界と、私の人生は、私の目から撮影されている。「私」という存在を想定するなら、というか、めんどくさい独我論的に言えば、「私」しかいない。この世界も人生も「私」が見なければ存在しない。私の意識と世界は共時存在している、というか、そうした奇妙なしかけに私は閉じ込められているのだが、にも関わらず、私は世界の傍観者であり、人生の傍観者であるのはなぜなのだろう?
 パウシュ教授は子どもたちの夢を語っていた。私にどんな夢があったか、思い出すと、それが実現もされなかったので痛みのような感じがする。でも、夢はない。今は、そういう意味では、私はなんの夢もない。まあ、そこまで言うと少し違うか。
 私の人生は幸せだったか。幸せだったと思う。幸運だったか、公平にみるなら幸運だったと思う。ただ、有名にもならなかったし、運も才能もなかった。凡人だった。よくある一人の人間だった。私など、この世界に、私としていてもいなくても、それほど意味ない引数みたいな存在だった。型チェックくらいはするかな。
 50歳になってから、漱石の人生が終わり、そうだな、パウシュ教授が見ることができなかった人間の時間を生きるようになると、死をまた別の視点から見るようになる。
 こういうとキチガイみたいだが、死でもって「私」が終わる、というのは仮説だし、人はその点についてどんな信念を持ってもかまわない。霊は不滅とか。実際のところ靖国神社とかに騒ぐ右派左派のみなさんは霊魂を信じているのだろう。まあ、それは私にはけっこうどうでもいい。
 霊魂が不滅でも、身体が有限であることはどうしようもない。輪廻転生というのは、三浦俊彦参照)ではないがある種論理的な帰結として出ても、あるいはより正確にいえば、人間意識というのはそうした構成を要請しているとしても、人々が転生として語るものはむしろ霊魂であり身体は入れ物ようにすり替わり、身体が転生するとはあまり考えない。いや三島は少しそう考えていた節はあるか。
 いずれにせよ、身体は有限であり、生きていれば、老、消滅する。精神と脳の関係は存外に簡単ではないが、少なくとも脳というインタフェースであり、それは劣化して、狂気に至る。私は、つまり、死とはそういうものだと考える。あたりまえのようだが。つまり、霊魂でも輪廻転生でもその他の思想をどうくっつけても、それほど差のある問題ではない。