猫猫先生、自殺を問う

 ⇒わが心の強くて自殺せぬに非ず - 猫を償うに猫をもってせよ

 「わが心のよくて殺さぬには非ず」と親鸞が言ったのは、私見では別に深遠なことを言ったのではなくて、素質のない人間には殺人はできないということに過ぎない。

 現代語にパラフレーズすれば先生の理解のとおりか。
 歎異抄 第十三より。

 またあるとき、唯円房はわがいふことをば信ずるかと、仰せの候ひしあひだ、さん候ふと、申し候ひしかば、さらば、いはんことたがふまじきかと、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつしんで領状申して候ひしかば、たとへば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべしと、仰せ候ひしとき、仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえず候ふと、申して候ひしかば、さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞと。これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべしと、仰せの候ひしは、われらがこころのよきをばよしとおもひ、悪しきことをば悪しとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、仰せの候ひしなり

 つまり、器量は「素質」に近い。
 でも、それは唯円の言であって、親鸞は、「業縁」としている。
 しいて解釈すれば、いかなる「素質」であっても「業縁」のもとで人は「百人・千人をころす」としている。
 つまりは、「業縁」とは何かが問われる。
 別話題。先生曰く、

 ところで千葉俊二先生は茂木健一郎の「偶有性」という概念が、とか書いていたけれど、いったいその概念はどこが新しいのかまるで分からぬ。

 で。
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