正気と狂気の境について微量に

 まず、たぶん、心理学的というか精神医学的にか、ちと曖昧なのだけど、正気と狂気の境というのは、ないです。そのあたりの議論は、これ嫁。

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脳は意外とおバカである: コーデリア ファイン, 渡会 圭子
 古書がだいぶやすくなっているけど、これ、私は3回は読みました。まだ読むと思う。初読のときはありがちーとか思ったけど、こいつは意外と名著です。まあ、10年すると古くなるだろうけど。
 で、と。
 正気と狂気の区別というか統制は、ほいでも意外と簡単なんですよ。
 徒然草 八十五段を嫁ですよ。

 狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。

 つまり、本人は佯狂であっても、他者から見ればべたな狂人。
 ネットなんかだと、本人は意図的に愚民をたぶらかしているんだぜ的な人も多いけど。
 でも、法師のいうように、それってば、べたな狂人だってばさ、サマンサタバサ。
 つまり、狂人かどうかは、回りの集団が決めること。
 内在じゃないわけね。
 だから、回りの集団のインタフェースをどう観察し、統制するかということが、狂気と正気の問題。
 で、回りの集団が、集団狂気になると、そりゃ困ったということになる。
 というわけで、正気っていうのは、できるだけ、遠隔性への志向を持つこと、意識を開くことが重要なわけね。
 これを内在的に翻案すると、えーオレって愚民の前で佯狂しているのであっていたって正気ですぜみたいな内在自認を、とりあえず、暫定的に、仮説的に放棄して、できるだけ、遠隔の原理から照射すること。
 遠隔というのは、空間的、つまり、普通に世界から見たら日本のこのばか騒ぎキチガイFAとか、時間的、つまり、歴史をみたら、いつか来た道、この破滅の道っていうやつ。
 ただ、あまり遠隔性があると、集団から浮いて、結局狂気になる。ので、ま、ざっくり国家の共同幻想域で正気が正規化されないときは、もうだめですね、あかん。
 で、その国家の共同幻想域における正気というのは、一般意志ということなんですよ。ま、しかしその議論は難しい。と。
 いずれにせよ、個体の生存は環境に依存しているのだから、その依存のインタフェースの適正値が正気ということなんで、その限界点がみえれば、内面はけっこう狂人だろうがどうでも、いいったらどうでもいい。
 でも。
 ごく内在的な狂気傾向についていうと、そのインタフェースへの違和、あるいは集団の正規化みたいへの違和が、悪意に転換している傾向があるとき、実は、かなり、もう狂気なんだと思う。
 通じないなという内在世界を、外界との悪意で構築しはじめたとき、実は、すべては終わっている。キチガイの道しかないよというか。
 ということで。
 キチガイを避けるには、アホーであることは案外重要だったりする。
 あと、甘えかな。
 優越感というのは実は局在されているから、甘えがあるんだよ。
 「ぶっ殺すとか言ったけど、洒落でうけとめてくれよ」みたいのは甘えですよ。
 っていうか、そういうコード、インタフェースの内在の、ちょっぴりさみしいところで、恋みたいなものとか、二次元嫁でも作るとよさげ。