ちょこっと

 生産性についてはよくわからない。
 ただ、マルクスの言う「価値」というのは抽象的なのだけど、資本論の展開で見ていくと、市場がその原理性において含まれている。つまり理想状態の市場が価値の仕組みに内包されている(それ自体は資本主義の問題ではなくて理論上の仮設)。そしてそのように、労働が商品化されることが疎外ということ、あるいは物象化ということなので、人間の労働が非人間的なものになってしまうという意味ではない。というか、そのあたりの基本のことがわかってない左翼っぽい人も多いのかもしれないし、まあ、逆にお前こそ分かってないだろループになるのだろうけどね。
 マルクス的な射程では、非正規雇用みたいな問題はないと思うというか、マルクスを含めたソーシャリズムがむしろ米国で興隆して労働団体の活動が強くなってくる。それからいわゆる正規雇用的な歴史が始まる。この側面で日本の場合は、いわゆる資本主義は戦前であって戦後はむしろ、日本国家が生産マシンと化し、実際のところ労働団体が、横の連携性がないのが特徴的なんだけど、そのマシンの内実に組み込まれていき、実質保護された。そして結果として安定した55年体制を生み出していた。このひどい歪みというか思ったのは80年代の海外労働者だったな。労働団体が権力化して実際の最低線の労働者を実質迫害しはじめた。その後、海外労働者の部分を日本マシンは実質労働シーンから隔離したので今はあまり問題化もされない。問題なんだけど。でもいちおう言説からは外されるから、今ある、ある種の左翼的な言動は実際にはノスタルジーでしかない。というか話を戻すと、労働市場の自由度が日本と米国で比べた場合どうなのかという話がなんとなくスルーされる。もちろん、米国の労働市場の実態は階級制度に等しいので自由な市場とは言い難いのかもしれない。とはいえサブプライム問題なんたらけっこうなホワイトカラーが解雇された。ああいう運動がけっこう次の時代を形成するのではないかな。
 ああ、あと日本の非正規雇用というなら、シャドーワークが大きいんだよね。女を主婦として日本マシンに組み込むことがそろそろ不可能になってきたというあたりかな。それまでよく組み込まれていたなというのも不思議ではあるけど。
 関連
 ⇒「疎外」についてさらに - finalventの日記
 ⇒finalventの日記 - 物象化論だけど
 ⇒finalventの日記 - まちょっとノート
 ⇒まあこんな感じ、マルクスと価値のこと - finalventの日記
 ⇒ま、ざっくり - finalventの日記
 ⇒メスが着飾る - finalventの日記
 ⇒おカネと時間 - finalventの日記
 ⇒ マルクスの労働価値説
 ⇒ 議論がきちんと噛み合えば面白いのだろうなとはちと思う
 ⇒ 言うも野暮だがマルクスは革命の担い手をプロレタリアートとしたのは
 ⇒ [R30]: 続・働く人のキャリアの作り方
 ⇒ ちと、おフランス哲学
 ⇒ なぜ社会学が支配の意図を持つのか

 おまけ
 ⇒マルクスは結局リカードふうの労働価値説に則ってると考えていいのでしょうか。な... - Yahoo!知恵袋

 ただし、マルクスは、「価値は市場において実現する」という考えをとります。ここがリカードとの相違です。単純な労働価値説では、同じ商品でも、のろまな人が作った商品の価値と機敏な人が作った商品の価値は、違うことになりますよね。
 マルクスは、「社会的必要」という次元を設定して、この問題に答えます。つまり、「社会的必要」からみて何時間の労働力を要する、という点で労働力の価値を把握するわけです。これは、「社会」の水準を導入した新しい労働価値説でした。
したがって、マルクスの労働価値説は、リカードとは同じ労働価値説でも、次元を異にするものと言えるでしょう。

 
追記
 ⇒疎外について - reponの日記 ないわ〜 404 NotFound(暫定)

ちなみに、「経済学・哲学草稿」を書いた時点のマルクスは、搾取、という仕組みを十分に解明していませんでした。
 
そのため、よく、この草稿の後に書かれた「ドイツ・イデオロギー」の時点のマルクスと「資本論」のマルクスは依拠する論理が異なっている、と言われますね。

 ちょこっとだけ。
 ⇒搾取 - Wikipedia

 マルクス以前にも、リカードも、価格が投下労働価値に比例する前提のもとでは、正の利潤の源泉が労働の搾取にあることを示していた。
 マルクスリカードの付与した条件を広げ、価格が投下労働価値ではなく、均等利潤率が成り立つ「生産価格」になったとしても、利潤の源泉が搾取された労働だと言えることを証明できたとした。これがいわゆる「転化問題」における「総計一致二命題の両立」である。

 ところが、1954年、置塩信雄が証明した「マルクスの基本定理」(この呼び名は英語で『マルクスの経済学』を著した森嶋通夫命名したもの。証明者にちなんで、「置塩−シートン−森嶋の定理」と呼ばれることもある)は、ともかく正の利潤を発生させるような価格ならどんな価格であったとしても(つまり投下労働価値に比例した価格であろうとなかろうとも、また均等利潤率をもたらす生産価格であろうとなかろうとも)、そのもとで労働が搾取されていることを数学的定理として示した。このことは、マルクス主義の立場に立つ立たないを問わず、厳密な客観命題として、この定理の示す結論を(非マルクス派の経済学者にも)承認することを迫るものである。

 この「正の利潤を発生させるような価格なら労働が搾取されている」なんだけど、サミュエルソンが言うように、逆も成立するから、「搾取される剰余価値が成立するのは正の利潤が発生した場合だけ」ということにもなる。
 たぶん、このあたりの逆が成立するのは、価値の内在に理念的な市場が含まれているからでないかな。
 で、さらに。
 ⇒欧米マルクス価値論の新たな潮流〈吉村信之〉 : ちきゅう座 - スタディルーム

1981年のボウルズ=ギンタス(Bowles and Gintis[1981])が、更には日本では「クーポン社会主義」や「アナリティカル・マルクス主義」の旗手として知られているローマー(Roemer [1986])が一層精緻に、この「マルクスの基本定理」が、労働力のみならず、鉄や小麦といった生産投入要素にも同様に成立することを数理的に証明した。「一般化された商品搾取定理」と呼ばれるものがそれである。生産過程において投入される生産要素が利潤を生み出すことに寄与していること、この点で労働力も鉄や小麦と無差別であることが証明されれば、マルクス剰余価値論、さらにはその上に打ち立てられたマルクスの経済学体系は砂上の楼閣に帰してしまう。