日経春秋 春秋(4/27)
確かに、例えば古代日本の文学作品である「万葉集」はみんなで楽しむために編まれた。▼万葉の歌は民謡でもあった。「多摩川にさらす手作りさらさらに何そこの児のここだ愛(かな)しき」は「多摩川にさらす手作りさらさらに」「さらさらに何そこの児のここだ愛しき」と「さらさらに」を繰り返す労働歌だった(佐佐木幸綱「男うた女うた」)。琵琶法師が語る「平家物語」も耳から入る娯楽作品だった。
平家物語は案外難しい。万葉集については、これはまあ違うと言ってもいいかな。最近の学説はどうか。万葉集というまとめにも問題がある。基本的に現存するのは奇跡に近く、仙覚は偉かった。
⇒仙覚 - Wikipedia
で、万葉集なのだが、巻1、2あたりは国選というか国家との関わりが強い。天智系と天武系の微妙な軋轢を残している(額田王の伝説あたりはけっこうどうでもよいが)。
春秋子が引かれている民謡だが、これが微妙で、ざっくばらんにいえばこれはコロニアルな問題。つまり、国家が東国を統括する文化的な統一というか支配の一形態にある。つまり、こうすること(歌として収録すること)によって、天皇の歌との結合と、徴兵・徴税に結合していく政治性が根幹にある。ただ、これが実質国家側から日の目を見なかった。
ちょっと学問的に危うい言い方になるが、いわゆる五七調が成立したのは、天智王朝のサロンであろう。しかも、基本的に短歌というのは、長歌のコーダだし、長歌は漢詩に対する女のサロン文化だろう。これを単一の形式にしたのは人麻呂だろうし人麻呂の歌形成過程にはそういう漢詩からの脱却が見えないわけではない。
東歌がだからこの形式にまとまるはずはないので、非常な作為がある。国家的な作為。
いずれにせよ、万葉集は、特に後半になるにつれ、家持の私家版になる。たぶん、過程には旅人と長屋王の問題が潜んでいるのだろう(長屋は親王であり、とすれば父高市は皇位についていたはず、おそらく「持統」が高市なのだろう)。つまり、聖武天皇や称徳天皇を巡るクーデターなどもだ。あれもいま一つよくわかっていないというか。史学的に黙殺されている。
正倉院の謎: 由水 常雄 |
私は万葉集が好きだった。茂吉のあれは高校生時代に全部そらんじることができた。
でも、万葉集が民衆の歌とか言われるような時代は、終わりにしてよいと思う。
追記
ちょっと読み返していて気が付いたのだが、「ここだ愛しき」を春秋子、読めているかな。「いとしき」とか読まんでくれ。ここは、「ここだかなしき」と読む。この「かなし」は沖縄の言葉に残っている。
いちゅんどうや
かなし
まちみそうりさとめ
にしんじょうぬいえだや
うとぅむさびら
「にしんじょう」が漢字で書けたら沖縄を語ってもよろし、かな。