そういえば

 あまり言うとまたわざとらに誤読して気違い扱いネタで叩かれるかもだろうけど。
 自分が変わったというのの知覚に近いのか、過去の自分が、他人のように感じられるというのがある。
 自分が確かに経験した過去なのに、他人のような。
 自我の体勢変化というか、意味受容の全体が変わってしまったような。
 もうちょっと不気味なこというと、自分の肉体に、すーすーっと精神的なボディが入れ替わったような。
 まあ、そこまで言わなくても、好きだった人に関心がなくなるとき、人は誰でもそう思うのではないかな。
 逆に、好きだった人を憎んだり、嫌いだったりというのは、同じ人のまま。というか、同じ自分でありたい自分が、憎しみを掴んで離さないのだろう。
 ついでなんでもうちょっとキモイこというと、夢がそうなんだけど、意識のステートによって、自我の自我性みたいのはゆらぐ。
 単純な話、夢のなかの私と覚醒している私の一貫性というのは、どうも奇妙。デカルト的なコギトも、初期ハイデガーの世界内存在とかも、カントの理性みたいなものも、スコーンとごく普通に否定されている。まあ、哲学的にはごちゃごちゃ言うのだけど、それらはむしろ、スコーンへのあがきでしょう。
 この自我性の揺らぎの感覚は、むしろ、人類種の意識にかなり固有もので、転生の意識として生物的に埋め込まれているんじゃないかと思う。
 靖国神社問題とかで右派左派いろいろ騒いでいたけど、それと中国人は実際には儒教(という道教)だからだけど、あんなお社や位牌(靖国神社に祀られている霊とは実は位牌)みたいなものに、精神的な意味を見いだすのは、どんだけぇな宗教。それらは、無だよ。
 でも、近代人ですら、というか、イデオロギーの根ですら、こっそり転生の意識が混濁しているというか偽装されて成立する。