ブログに書かれない部分
⇒けっして書かれる事の無いものの強さ。[その他] : 真性引き篭もり/entry
決してブログに書かれる事の無いものこそが、僕を魅了してやまないものの正体なのだ。「決してブログに書かれる事の無いもの」は十人十色、人それぞれ違う。ある者にとってそれは妻への愛であり、ある者にとってのそれは死への恐怖だ。ある者にとってのそれは自らの半生に対する後悔であり、ある者にとってのそれは特定の誰かへの憎しみだ。ある者にとってのそれは口に出すこともためらわれるような見果てぬ夢であり、ある者にとってのそれは小さな黒い過去である。ある者にとってのそれは仕事の悩みあり、ある者にとってのそれは異常な性癖である。
真引さんは本来の意味で、ユマニスムの感覚を持っている希有な人だなとあらためて思う。
正剛さんのこれはそう⇒松岡正剛の千夜千冊『曲説フランス文学』渡辺一夫
渡辺一夫は周囲から日本のユマニストの象徴のようにおもわれてきた人物である。大江健三郎が“渡辺先生”を語るときも、そういう口吻になる。
これは、渡辺がルネサンスの“ユマニストの王”であるエラスムスを研究していたこと、それ以上にフランソワ・ラブレーの翻訳と研究の第一人者であったことにもとづいている。
しかし渡辺のいうユマニスムは、今日語られている「ヒューマニズム」なんぞとはかなり異なっていた。そこには「嘲笑」もあれば「揶揄」も含まれる。ようするにつねにおかしなモノやコトに対する腹の底からの「笑い」というものがある。これを渡辺先生は「寛容と狂信のあいだ」というふうにとらえた。
寛容はともかくも、狂信までもがユマニスムに入るというのは、いささか意外であろう。
私は若いときひと冬図書館に篭もって渡辺一夫全集を読みふけった。今あまりに記憶に残ってないのがトホホだが。しいていうと、正剛さんの理解と私の理解は若干違う。でも、それほどどうこうことでもないかな。