ちょっと釣られる
自分が、ある一定の年齢以上のアルファブロガーとかの恋愛・出会い論に首を傾げて茶々入れるのは何でだろうと考えてたんだけど、理由はここで書いた荒川静香と伊藤みどりのようなもので、
アルファブロガーはさておき。「ある一定の年齢以上」だけに局限して、「恋愛・出会い論」関連だけど。
ま、つまり、私の、「恋愛・出会い論」みたいなこと、を、また。でも、ちょいと。
結論だけ言うと、恋愛は無意識、出会いは運命(啓示)。
恋愛というのは、自分の無意識が決めている。昨今の言い方だとDNAが決めている?まそれはひどすぎるか。でも、大枠は無意識が決めている。で、ややこしいのは、無意識が決めているのに意識でそれを踏みにじることはできる。ま、それが人間存在っていうものかもだけど。そして、無意識が決めるというは本当に無意識が決めるわけで、「無意識が決める」という意識が決めるわけではない。よく、「身体が知っている」系の人が、身体が決めるとか言うけど、言う分、実は意識。
とはいえ、恋愛というのは意識を越えたところにあり、無意識の自分がすでに奪い去られるという事態でもあるので、いわゆる議論とかはそういう事態ではそれほど意味はない。
ただ、いわゆる恋愛というのは、この無意識と意識の葛藤を指すし、そして、実際には、母子関係(親子関係)と無意識の疎外としての恋人を生み出す。しかたがないプロセスでもあるのだろうけど、この幻想関係は、なんというか、生活を実務的にこなせる能力がない人だと、ぼろぼろというかずたぼろというか、だめだめになる。
このあたり補足していうと、恋愛ができるのは、ご飯が作れて、人に食わせることができる人なんですよ。ま、すごいネガコメ食いそうな意見ですが。
で、出会いは運命、というか、啓示。どういう出会いになるかわからない。邂逅というのは人生の不思議。そうい越えた部分に出会うからみたいな、そういう人生の契機というか啓示というかまあ、そんな。
ただ、これもさっきの嫌われ意見的にいうと、そういう場が身体に先行するわけだから、時間の共有が重要になる。つまり、出会いの場に出ていくという、出会いの場と自分の関係が問われる。で、その場というのは、結局、生きて仕事をしていく場なんで、いわゆる出会いのセッティングの場ではない、というあたりで、栗先生のお考えとはまるで違うでしょ。
で、こうした話、つまり、恋愛・出会い、というとき、その枠組みが結局は問題。古い採点方式というより、恋愛とか出会いとかはどういうフレームワークにあるか。
これは、私は、キタキツネと同じだと思う。モグラとも同じ。
大枠で生物の生存戦略があり、そして個体の個性化の責務がある。
つまり、恋愛とか出会いとかは、それから生きていくというサバイブのなかで意味づけられる。
そう、べたに「あなたがいないと生きていけない」という生存の、個性化を通した問い掛けが恋愛とか出会いにある。
のだけど、昨今の「恋愛とか出会い」というとき、すでにそういうフレームワークないでしょ。
最初に「自分がいる」というモデルになっていて、そのアトミックな存在の関係として恋愛とか出会いとか、つまり、個性化が前提になっている。
でも、やはり、ここはライフサイクル、ライフプロセスのフレームは逃れられないと思う。
というか、サバイブのプロセスがライフプロセスの過程にならざるを得ない。べたにいうと、その過程のなかで、生物はリプロダクションをしていくわけで、つまり、子どもを産み育てる。
そういう大枠のフレームワークというのは、知識ではどうにもならない。子どもを産み育てるというのは、もう無意識の側の自分に頼るしかないし、そういう生物の流れのなかにしか存在できない。
別の言い方をすると、昔の栗本さんが言ったように恋愛は性欲。で、その性欲からその流れのなかの責務に至る愛みたいなもんをどう獲得するか。
でも、このあたりで、絶望的なことを言うと、そういう獲得それ自体が、種の集団性のなかで経済学的に配分されているように思うとかいうと曖昧なんだけど、つまり、そういうライフサイクルは実は個性化の関係において集団の配分になる。全然、つまり、になっていかないか。
恋愛とかのなかで個性化を選ぶということが、現実的には、生物のリプロダクションにならないように選択された個体は、全体の生存戦略のなかで決められているということで、そのための快楽の配分もある。
逆にいうとそういう快楽にむなしさを覚える個体は、リプロダクションのライフサイクルに入っていく。し、そうでないのは快楽がその個体の人生の意味になる……というか、そこはちょっと微妙で、老年期あたりでもういちど揺り返しはありそう。