ブログとか日記とか

 どうするかな、と。昨日、いちおうブログサバトっていうか、離れていてというか思った。
 なんとなく極東ブログを続けていく気力みたいのは抜けてきているというか、いろいろ思ってもめんどくさくて書かなくなりつつあるというのと、批判されることがわかっていて書くだけの気力というか、理解されないなとか最初に萎えてしまう。というか、理解されるように書けないわけでもないがそれがつらい感じだ。
 ネガコメだけ書きまくっている人は楽だろうなとかちょっと思ったが、つまりはそういうことだ、つまり、そんなのは書いている意味がない。
 はてながどんどん変わっていく。haikuも面白いと思うし、使い道はあるのだろうけど、というか使い道をちょっと考えてみたい気はするが、スターがどうも受け付けない。
 人を褒めるというか賛意というのを明示する関係というのもいいのかもしれないが、なんか私としては恥ずかしい。もっと暗黙で自然でいいのではないか。
 あと、別にブログシーンにあまりいたくないなという気持ちと、さてさてという気持ちとある。匿名にして別のブログを書くというのも無意味な気がする。私は当初から匿名でやっているつもりはない、ただ、仕事との関連がないのだから実名とかにすることはないんじゃないかくらい。というか、どっかでブログっていうのはビジネス的な展開があるかと思ったが、私の場合はなさそうだ。
 「はてな村」はネタにはなるが、そして実際のところそういうクローズなところもあるが、どうも見渡しが悪い。というか、自分がなぜはてなに居るのか自分でもよくわからない。はてなが使いやすいから惰性というのはある。気まぐれに書きやすい。
 移転とか少し考えたが、結局同じようなものになるので、どうかなとも。
 Twitterについては距離が見えてきた。フォローがすごく大きくなってしまってどうなるんだろうと思ったが、まあ、大丈夫じゃないか。軽い感じの関係性がいいし、自分のようなTwitterの使い手というのは、あれ、部活の部屋のだべりみたいな感じ。
 ただ、Twitterだと、けっこう言っちゃうなというのはあるな。
 私は実生活では凡庸で常識的な人なので(まあたぶん)、この日記のようなことや極東ブログのことのようなことは言わない。もともと10代から20代半ばまで自分の精神生活というか人が知ることがなかった。ときたま詩や短歌を書いて雑誌に投稿して賞とかもらったがそれほど文学が好きというわけでもなかった。というか、あまりそういうところから人との交流をしたくない。
 若い日の恋愛は、今にして思うと、その蹉跌は、自分のそういう矛盾みたいのがあったのかと思う。私は特段芸術的なテイストもないし、日記などで誤解されているかもというほどの宗教的な情熱もない。ただ、矛盾し、混乱していて、それがそれなりの痛い目にあったというだけ。能力もないし凡庸なというか。
 まあ、よくわからないな。
 こうして書いていて通じるとも思わないし、ただ通じないとも思わない。結局のところ自分は相応に歳を取って、若い世代からはうざらがれているということかも思うが、別に好かれたいわけでもない。
 それにしても来年は2008年か。わけわかんないくらい生きてきたなという感じがするし、なんでこんなにネットとかに書いているんだろう、俺。
 というか、だんだん、ネットとかではうまく表現できない部分の比重が多くなりつつもある。「ネットで表現できない」という言い方は拙いのだが。ふと思ったことを言うと、梯子丹のその後というか来年の展開だがなんであれ幸せであればいいのではないか。幸せといのは凡庸なもので自分の硬い否定的な核を失うことかもしれない。そういう核みたいなのがないとおよそ、書き言葉などというものは出てこないのではないか。おセックスをして気持ちよかった人を愛して幸せだったという人は、特段にそんなことを書かない。というかネットでは表現できない。表現するなとは言わないので、また驚くような展開があるのかもしれないが。
 それでもネットから見えない世界というのはある。内面とも違う奇妙な部分だ。善行というのは隠して行えみたいなのに近いかもしれない。普通に凡庸に生きてその意義が言葉に映ってこないなにかがある。
 
追記
 読みましたよ⇒ブログがキャズムを越えたのは誰のおかげだろうか? - どんなジレンマ
 基本的には運命というか、人生のそのおりおりの感覚に流されていくつもりでいます。書きたくなくなったらそのままやめてしまうということに抵抗感はありません。