増田な性考察

 ⇒AVは性の教科書ではない

AVの一般化がもたらしたことは
フェラチオの一般化から始まって普通に顔射をする輩まで進展するんだろうな

 話はずっこけるけど。
 私はAVってまともに見たことないんですよ。気取っているわけじゃないんだけど、世代的に見てないっていうか。
 私が20代までは裏本という時代で、マルチメディアはなし。
 で、エロ映画とかは60年代からあるわけだけど、あれ劇場というかエロ映画館というかあるいは普通の映画館で特別期間とか。で、私が子供のころは、げげげみたいなエロ映画広告がラーメン屋とか駅の構内に貼ってある。子供にこんなもの見せるんじゃないと今なら誰もが思うようなものがあった。昭和30年代、40年代が懐かしいとか言っているやつらバカじゃないの、酷い風景もあったよ。
 で、エロ映画のビデオ化があったのだが、これも見てない。ほとんど見てないというべきか。なぜだろ? まあ、パーソナル・ヒストリーの問題とかお好きかというのもあるだろう。
 っていうか、私はエロ映画=AVだとつい最近まで思っていた。どうも違うっぽいので、昨年だかたDVD付きの雑誌というのを買ってみた。まあ、なるほどね。で、面白いか? 面白くはない。偉そうにいうわけではないが、なんか痛い感じがする。青春の痛さというか、リアル人間対応のときの鈍い痛みというか。大人がいうこっちゃないけど、AVみたいなおセックスってないでしょ。でも、今ではあるのか。つまり、近代文学の恋愛のようにメディアの意識がコピーされるというか。ま、でもないな。普通の人は普通の面相にして身体なんで、絵にならない。絵にならない部分でこそっと生きている(おセックスとかしている)。
 どさくさでいうとその後の梯子丹話で非対称性とか言っている人がいて、いや実はもっといるんじゃないかと思ったがそうでもないんでなんだかんだいってもはてなーは賢いなとも思ったが。あれ、女はおセックスフレンド募集できるけど男はできないよな的にナーブにそして怨嗟になるかと思ったがそうでもない。この非対象性は、実際のところ男はカネで女が買える社会が依然としてガンとあるということだろう。いい悪いとかじゃなくて。そしてでも理念的に言えるなら、女も男を同じくらいに買えるというか、なんだが、あれ、クラブとかがどうもそれっぽいけど、女の側にマーケットは開かれていないっぽい。この市場性において重要なのは、キモオタ君だっておカネで女が買えるよという公平性・オープン性にあるというか。
 話がそれすぎ。
 で、AVなんだが。フェラチオというのは私が20代ころは、変態の部類だった。いや、ご同輩や年上のかたがそうじゃないだろとかツッコミされるかもしれないけど、ちょっと違うんだよ、それが。って説明するのもなんだが。簡単に言うと、って簡単に言えるものではないけど、尺八っていうのは江戸時代から手抜きテクとしてある。つまり、あれは客商売という文脈があった。(もうちょっというと、昭和40年くらいまで普通の人が今みたいにおセックスをやっている時間もなければ環境もなかった。りあるうさぎ小屋っていうか。江戸時代の長屋みたいに嬌声筒抜けでいいやの世界でもなかったし。)
 ついでにその文脈でいうと、売春って今では一括されるけど、情交じゃないけど、情の部分において価格差があった。このあたりは実は現代でもキャバクラとかでもあるだろうけど、まあ、はしょって言えば、キャバクラでも美人が問われているようで、ツメに近いところでは情が問われている、はず。
 情というのは日本語ではべたにおセックスの含意があるのだが、べたなおセックスではなく、やはり情らしい響きがあるわけで、まあ、日本的な(たぶんにロシアとかもそうだけど)情に極まっていく。
 ってところで本題に入らずにブレイク。