微妙に違うなにか

 とても微妙でうまく言えない。
 微妙に違うといって異論とか反論ということではない。
 一例⇒ブログは感情の発露する場所を求めて傷ついたり傷つけられたりするものなのだろうか - てきとうチャ日記
 ぶくま⇒はてなブックマーク - ブログは感情の発露する場所を求めて傷ついたり傷つけられたりするものなのだろうか - てきとうチャ日記
 もう一例⇒404 Blog Not Found:「ほげ」「ふが」...がどんだけの男女を無気力にさせているのか少し考えてみた
 ぶくま⇒はてなブックマーク - 404 Blog Not Found:「ほげ」「ふが」...がどんだけの男女を無気力にさせているのか少し考えてみた
 率直に言って、現状の萌えろよ萌えろよ的キャンプファイアー空気と文脈から離れて、別のモデルで論じてみたいというか、論じなくていけない課題なんだろうと思う、というか少なくとも自分へのチャレンジ。
 うまく言えないのは、この微妙な差異感に関係しているのだが、先行的に言うと、settlementを求める思考そのものに欺瞞を感じるからだ。
 自分がこれまでこっそり考えてきた問題系列の比喩で言えば、「罪」は許されるか?という問題。
 極度にマクロ的というか無限延長的に言えば、許されるのかもしれない。
 だが、人の生涯において、「罪」がありそれが「許される」というのはどういうことなのか。
 イエスは、許しも語っているのだが、それは相互的な認証としての許しということで、罪との対応ではなく、罪そのものの矛盾した限界の光のなかで見ている。むしろそれは和解というべきであって罪が含まれていてもいい。
 イエスに、許しを求めた女にイエスが語ることは、「誰もあなたを罰しない、行きなさい」というだけだ。
 イエスは「罪」の構図をそうした、ある限定性として解体したのだろうか。
 というか、人は「罪」に誇ることがある。
 この問題は、ヨブの問題でもあって。
 ヨブ記の表層的な結末は後代加筆、というか、ヨブ記の問題の解答にはなっていない。しいて言えばヨブ記の解答とは、「おまえは被造物だ」と神に向き合うだけになっている。
 むしろ、ヨブを捌いた者たちを神は皆棄却してみせた。この世の知恵は、すべて、この世の悲惨にその内部で完結する理屈ようなものを求める。そして、それはものすごい悪たりうる。
 ちょっと神秘思想に足を突っ込むとというかユング的には悪の創造問題でもある。
 が、そこは問題構図が違うだろう。
 ヨブの苦しみには、理由がまったくない。あるとすれば、それが神の意志というだけだ。それは世の中の、理屈をすべて却下させる。