基本的に同意なんだけど
徳保さんらしいといえばそうだし、らしくないといえばそうだし。
⇒核の傘
核の傘……例えば北朝鮮が東京に原爆を落としたら、アメリカが平壌に原爆を落とすのかな。
自分が被害にあったら、大火傷してから死ぬまでの間、「北朝鮮のやつらをぶっ殺せ!」と訴えるかもしれない。でもそれは、ショックで我を忘れた状態での発言。どうか聞き流してほしい。平和な生活を送っている今の私は、やはり原爆は必要悪の範囲を超えていると思う。
原爆による無差別大量殺戮の非道に、同じ非道で返して本当に嬉しいか。私は核の傘から脱退すべきだとはいってない。「可能性」を保留しておく意義はわかる。でも、ギリギリの場面で、日本の世論が核攻撃に対して核による反撃を望むなら、平和国家60年の歴史も虚しい。
この見解に私も基本的に同意。日本は核を持つべきではないと、いうふうに総括されてもいい。
感性的なズレは感じる。それは、徳保さんらしい/らしくない、微妙なところに関わってくるかもしれない。
そこを追求するという意味では全然ないのだけど、「でもそれは、ショックで我を忘れた状態での発言。どうか聞き流してほしい。」という発言は、遺言なり法的なものであればそうかもしれない(つまり他者との協定なりの発言なら)、しかし、およそ発言者たる者はとまで言わないし、いや全然言わないけど、あとで発言を変えたらなら、それがその人の発言だ。たぶん、そのあたり、徳保さんは、ブログの発言についても私とかなり違う感覚にあるのだろうと思う、けど、ちょっと踏み出していえば、私のこの指摘(その後の発言がその人の発言)というのが一般的だろう。
で、あれば。
こうした思想に関わることばは、そのショックをどこまで織り込んで言うかに掛かっている。徳保さんのこのケースでいえば、北朝鮮のミサイルが東京に落ちたときどうありうるか、ということを今の言葉のなかに織り込んでいかなくてはいけない。ただ、たぶん、率直に言うのだけど、そうした問いを立てないのが徳保さんのスタンスだった。で、そこで踏み込むなら、であれば、こうした今回の発言自体がナンセンスになってしまうのだ、というふうにはたぶんお考えにならないのかもしれない。
ちょっと表現がきつくて申し訳ない。
平和を問うなら今の「平和な生活」の自分の限界にいることはできないのだろうと思う。そして、その限界性は、実は現実世界、つまり米中の核のフレームの枠のなかで日本の核がどんな意義を持つかも問わないという、ことでもある。
少し話がずれる。
吉本隆明は、北朝鮮が日本を攻めるなんてことはない。絶対にないよと言う。ミサイルについては言及はないと思うが、同じくそんなことはないよと言うだろう。では拉致は? 彼はこれは個別交渉すれば簡単に解決すると言う。
私は、まず、拉致問題については個別交渉すればいいというのはボケ爺発言だろうとしか思わない。拉致は現状の範囲ではないし、あれは明確な国家犯罪なのだ。というあたりで、吉本がこの問題にオクターブ下で外しているのは明瞭。では、北朝鮮の攻撃の可能性についてはどうか?
私は、ないと思う。核弾頭が東京に投下されることもないと考えている。そんな心配よりもっと異質なテロを心配すべきだと思うし、その影はちらついていたと考えている。なぜ核弾頭投下がないか。私が北朝鮮を甘く見てくるからで、島根県程度の国力の疲弊国家の暴発にしては無理過ぎるだろうということだ。
むしろ、北朝鮮が怖いとすれば、それがシリアやイランなどと連携を開始するときで、むしろその連携が見られるようだ。北朝鮮の核よりそれのほうがはるかに怖いんだよと私は考えるし、どうもそう考える人は少ないみたいなので、極東ブログでも書いてきた。
少し話を戻す。
北朝鮮は東京にミサイルをぶちこむ能力があるかといえば、ある。ダーティボムくらいは可能だ。ではそれが暴発したとき、どうなるか。
被害は出る。ただ、かなり限定した被害だろう。そして、その時、日本人は太平洋戦争開始時のようなヒステリーに陥る。
徳保さんが暗に問われている問題は、むしろ、このヒステリーの問題であり、それこそが問題なのだ。
私たち日本人は、歴史に対して、平和を誓った。それは、米国の軍備も、中国の軍備も、最終的に無化する理路を明瞭にしてみせようという人類意識の課題でもあった。もちろん、そう書いても現実的にはせせら笑われるようなしろものだ。だが、敗戦の経験にはそれを書生論にしないものがあった。私たちは賢くそれを実現しなくてはならない。場合によってはずる賢く実現する必要もあるだろう。もっともどれほどずる賢くても中国の軍備ならオッケーみたいのはやめてくれよなというのは当然。