大手紙社説より

日経春秋 春秋(10/14)

 提起としてはいいのだがスジが違うようにも思う。どう違うのかがうまく言いづらい。

日経社説 連合は非正規対策の実行を

 連合では非正規労働センターと地方組織が連携して労働相談や組織化を強化する方針だが、どこまでできるかわからない。「我が社第一」が本音の組合が少なくないからだ。
 しかし非正規対策を優先課題に掲げたことは一歩前進である。看板倒れにならないことを望みたい。

 まあ見守りたい。

朝日社説 自殺サイト―もはや見過ごせない

 朝日を非難するというタイプの話題ではないが、たぶん構図がまるで違うだろう。ではどのような構図なのかというのがわからない。
 私の直感では、ネットだからという洒落ではなく、「はてな」村問題と似ているように思う。ネタはどうでもいいが、私はたぶんはてなの古いユーザー層に近いのだが、はてな村というのはわかる。IDがどうというのではない、コミュニティを指向してなにかを考えていこうとしたある有機体的な指向だった。それがいつからか、否定性の集約になってきた。どこでその旋回点があったのかわからないし、そういう単一なものではなかったかと思う。たぶん、ぶくまがある種、2ちゃん的に利用されるあたりだろう。ただそれがそういうシステムの契機であったとは思えない。
 個人的には教条的な左翼からのバッシングをくらっているうちは、まあ、戦後からやってきた日本のイデオロギーの病理がここまできたかと思っていたくらいだが、そうではないもっと薄気味の悪いものがぬっとはてなの中に現れてきたと思う。もちろん、それははてなというシステムの単一の問題ではない。
 コミュニティへの形成的なビジョンが、かつては市民社会のビルドを指向していた。私たちの社会はどうあるべきかというのを生き様のなかでメッセージ化し、その連帯としてはてな村のように息づいていた。それが、今ではどちらかといえばという比較でしかないが、否定性の共感とその共感のタネの先導者の渇望になってきている。その否定性のなかには、現在の社会が間違いであるというパラダイスのビジョンはあるが、その発言者が現実の社会に生きている問い掛けの息づかいはない。

朝日社説 中国の党大会―政治改革に踏み出すとき

 日本にいて日本語でこんなにべたな中国様フンっを読もうとは。