ちょっとバランスというか

 ブログというのは、特定の話題・分野・知識領域に特化したほうがいいという意見があり、まあ、それはそれでいいんだけど、やはりパーソナルなメディアなので、特定分野の専門家でも非専門外の言及はある。で、そこで見識に落差が大きいということもある。この場合、そういう床屋談義的な部分はスルーして専門的な見解だけ参考にするというのもあるのだけど、ちょっとこれを言うと揶揄みたいだけど、そういうケースは、いわゆる普通の人が特定分野を職業的に専門にしているというか、職人というか、お寿司屋さんや大工さんみたいなもので職能の領域かな、と。なので、そういうふうに接するべきで、この場合、ブロガーというのもとても限定的になる。
 専門分野的なブログでも、本人は専門に限定しているのだろうけど、一般社会からすれば、その専門領域の人に答えてほしい難問をスルーしまくっているケースもあり、特に、啓蒙的なスタンスにそれが多いように思う。私の考えでは、専門家というのは、一般社会からこそいちばんシビアな専門的な問い掛けを受けているので、それにもう一度市民社会に向いたときどう答えるかというのが重要だと思うので、なんというのか、専門知識のあるという人と、専門家というのはちょっと違うかなとも思う。つまり、啓蒙以外のスタンスで難問に向き合うようすを見せることができない人は、それほどたいしたことないんじゃないかな、と。
 ついでなんで。批判がメインになるブログ、あるいは一言でばっさり系のブロガーというのが多いんだけど、基本的にゴミでいいと思う。ブログというのは累積なんで、つまり、そのブロガーが積み上げた背景の関連のなかで発言するものであって、ログと切り離して発言できるという幻想は、つまり、リアル本人の各種の自負を他者に受け入れろというに等しく、説明性というかフラット性がない。「俺様の一言が聞けないやつはバカだ」というだけのことだろう。つまりは、どのような理念であっても、自己の特化が前提になるという構成を持っているのだが、そういう発言は、むしろ情報受容の点では除外したほうがいいかなと思いつつある。
 ちょっと向きを変えると、知識というのは、ここでいう知識はいわゆる職能的専門知識じゃなくて、市民社会が生きて課題とする知識、それこそがバランス良くブロガーに求められるもんかもしれない知識、それは個人を特化しないのではないか。ちょっと話が飛躍するけど、みんな死んでいく。俺様さんたちも死んでいく。そのとき、死なれた俺様さんたちより、たくさんの思考のアーカイブや時代の息吹のようなものを多くの人に、どうですか?と残して、無名のなかに死んでいくのが知識の重要な現れなのではないか。
 というか、ブログはいわゆるネットの流行としては終わったとも思うけど、実はとても本質的な提起をしている人類の知の最終形態を暗示しているんじゃないだろうか。