この事態はちょっと微妙
Bigbangさんの良いところでもあるのだろうけど。
⇒インターネットを遮断したミャンマー軍事政権とブロガーの戦い - IT's Big Bang!
その他、ネットにおけるドネーションの仕組みを使って、抵抗運動をサポートしようという組織も急速に立ち上がりつつあるという。ある意味で今回の事件は、強硬な武力政権によって、市民の命や自由が脅かされた時、そして海外へのネットワークを軒並み断ち切るという振る舞いに出てきたときに、我々ブロガーに一体何ができるのかという、重要な事例を提供しているとも考えられる。
言うまでもなく、良心も試されているのだが。
異論というほど異論ではないけど、ちょっと関連部分だけ自分の意見を。
私は、ネットのような通信インフラへの権力の介在は断固反対すべきだし、それに対して抵抗、及び海外からの支援をしなければならないと思う。ただ、今回の件で、日本のブロガーがその点で何ができるかは難しい。
次に、「海外へのネットワークを軒並み断ち切る」と「市民の命や自由が脅かされた」がイコールかどうかは、私は、少し距離を置く。もちろん、ネットワーク遮断=自由弾圧、というのはある。
ただ、「市民の命や自由が脅かされた」については、基本的に、ブロガーとの関わりが問われ、そしてその関与の関係性の認識がある距離を持つ場合、「公平に」、事態の構造の解明が求められると思う。そして、その解明への知的貢献は、それが可能なら、ブロガーの主要な戦場だろうと思う。
むしろ、「市民の命や自由が脅かされた時」という事態は、今回のようなフェスト的な一過性よりより構造的な背景があり、継続される。たとえばダルフール危機についてもそうだが、それは日本人があまり知らないところで発生し、日本のジャーナリズムも黙殺した。この危機は短期的な介在ではどうすることもできない、という構図のなかに、むしろ、大衆の命の危険性を孕む。
私にミャンマーで苦しむ知人がいるなら私の良心は直接的な友愛の行動を取るだろう。あるいはなんらかの友愛の心情が先行することもあるだろう。だが、たぶん、ブロガーとしての私は、ブロガーであることによって一端「疎外」され、良心への関わりが自己の友愛から少し引き離される。
追記
エレニさんから、レスをいただく(としていいでしょ?)
⇒ブログの使いよう : エレニの日記 - 2007-10-01
非常に微妙な問題を含んでいてうまく再応答はできそうにありません。単純なところで、ブロガーなんて何様?みたいなことはあります。別の言い方をすればブロガーなんて数を扇動すれば勝ちという割り切りすらあります。
そしてそれは明確な現実なんで、それでどこに行く?ということはあるでしょう。暫定的には、先日の吉本隆明の議論に繋げることはできるでしょうが、それでもブロガーの意味は客体的に議論するより、主体の側の問題、つまり、自分がこの世界を認識しつつ生きているという現実・実存でしょう(私はこの世界で狂気でいたくないという願い)。
こういう問題は、エレニさんが暗黙に指摘されているように、個別ケースの文脈に沿うことで明瞭になる部分が多くあります。その意味で、北朝鮮の問題は、エレニさんも覚えていらっしゃるでしょうが、エレニさんがかつて指摘された線はとても重要な提起でした。しかし、今回述懐されるようにそれが現時点ではとても難しい問題です。
うまく表現できないにも関わらず少し踏み込んで言うと、エレニさんがBigbangさんをひかれて指摘されている点、つまり、個別のブロガーがただ主体的な問題を受容するがゆえに、「個そのもの同士というブログにおいて、報道の枠外で流れを伝えていく」ということ、悪い表現になりますが、偶然行きがかったけどそれにコミットした、というのもありえるでしょう。
しかし、しかしと逆説してしまうのは、個別に言えば、私はそれができない。ダルフール危機問題に直面したとき、私は私ができる限界とコミットの継続性を意識しました。これも意地悪な言い方になってしまうのですが、たとえば、Bigbangさんの例にすると、彼はこの問題に継続的にコミットしていくでしょうか?
そうした主体的なブロガーのコミットというのありえるとしても、非継続的であるべきではない、そうであれば「祭」であったり数に頼ることになってしまう可能性があると思うのです。
極東ブログは、あまり気づかれていないだろうと思いますが、実は、ある特定の思惟のコロラリーから出来ています。単純には右派は新リベラルと読まれるでしょうが、たとえば、クルドで検索されると私がこの問題に継続的に関心を持っていることはわかるでしょう。なぜか、それは先のコロラリーと関係します。
追記
Bigbangさんからフォローがあり、またEreniさんからもフォローがあった。
⇒ほぼ同意見ということになってしまうのですが : エレニの日記 - 2007-10-01
⇒BigBang: ミャンマーのこと---相対主義の地獄を超える
⇒ミャンマーについて BB氏へ 続き : エレニの日記 - 2007-10-02
Bigbangさんのエントリは私のこのエントリの対応を想定して書かれている、と読めるので、それへの応答があってしかるべきかとも思うのだが、現時点ではあまり気乗りしない。簡単に理由をメモしておくと、Bigbangさんの以下の言及:
ブロガーの役割が、主体の一貫した継続的な責任表明であるべきだというのは、平和国家に住む者としては、おそらく誠実な姿勢であろうが、そうしたことに逡巡している間に時は経過し、暴挙は続いていくかもしれない。電話もネットも新聞も止められている国に対峙するにあって、我らのこうした「知的誠実さ」が、「意志の継続」が、決定的な意味を果たして持つだろうか。その誠実さは自己への生き方への誠実さであっても、彼らに対する誠実さになるのだろうか。100日だけ関わることしか出来ないなら、1秒も関わらないほうがましであると、言っていいのだろうか。
これを私の意見への反論的な文脈で了解したくないからだ。というか、その批判点については、元のエントリと続くEreniさんへの補足に含まれているからだ。あと、私は、通信といったインフラへの暴挙はまったく許されるべきではないとしている。おそらく、Bigbangさんは、Ereniさんと私の総括点的な視点を前に取りすぎたこともあるだろう。別の言い方をすれば対峙する議論をタイプ化しすぎている。
ただ、Bigbangさんとのネットでの交流から、少し違った角度で私が読み取るべき点は、「その誠実さは自己への生き方への誠実さであっても、彼らに対する誠実さになるのだろうか」という点だ。あえて偽悪的に戯画的に言えば、私は、彼らへの誠実さを持たない。彼らへの公平さを持つ、と。