霧雨、肌寒い

 外国のホテルで窓を開けたような気分。さて、それがどこだったかという記憶でもない。
 前線が通過。寒冷前線か、これ。東京は雨というほどの雨にはならないようだ。そして明日はもっと冷える。そりゃ、もう10月だものな。
 夢というわけでもないのだが、明け方、ぼんやりと、どこかの若い女の意識がtwitterのように混信したように入ってきて(実際に入ってくるわけでもなくて想像なんだろうけど)、それが「私を捨てないで」とつぶやいていた。そうした声に耳を傾けると、いろいろな女の小さな声が肌寒い小雨を覆っているようにも思えた。
 私は、幸いにしてというか男としてダメだったからか、「私を捨てないで」という女との関係性はなかった。あるいはなかったと思う。そもそもあまり多数の異性との経験はないがそれでも、女は去っていったし、私を捨てていった。私は追うということもしなかった。無意識的には私は私を捨てた女を許さないということかとも思うが、私がそんの女にとって他人となった、他者となった人の怖さというか奇怪さにうちふるえて、近づきたくもなかった。私を捨てて得るべき価値が私の前に現れたとき、私はそこから去るべきだろうし、実際には、女の目には私は唾棄というような感情までも含まない、雑踏の一人のようでもあるし、彼女たちの記憶に私はその後も存在しないだろう。未練とういものの別形態かもしれない。
 ただ、そうした思いは鏡像的だろう。私が女にとってそうせざるを得ないほどの気持ちの悪い存在なのだ。私は、躾けられた少年のように彼女たちに愛を語っても、どこかしら愛してはいなかったのかもしれない。というのは、私は彼女たちは私を捨てていくという確信と支配性への嫌悪を持っていた。たぶん、私と母との関係性からくるのだろうと思う。多くの男たちが母親への甘えというのを持っているのを、青年期以降知って不思議というかまるで違った性がそこにあるように思えた。「おかあさん」とかいう哀切性を持つ男をみると私は、吐き気がするし、いまでもそれはある。
 生きてみるのはよいことかもしれないというのは、こうした問題は、どうせ解かれないと諦めるものでもなく、まったく違った生き様が現れることがあると知ることがあるからだ。その意味で、この世界にはなんらかの超越的な光が差し込んでいるとも言えるし、ただ、それをそう素直に受け止めるわけにもいかない。
 明け方思ったのは、「私を捨てないで」というタイプの女との関係が私になかったことは私がそういう、単純にいえば残酷な男だったからでもあるが、現実には、「私を捨てないで」と女に呟かせる男のほうが残酷というか、非人情のようでもあるのだろう。
 話を端折るが、「私を捨てないで」という女との関係は権力の関係だろうし、それが複数になるとき、政治の性的な本質が露出するように思う。電波みたいなことを言うが、複数の女を「私を捨てないで」のように飼って置くことが男の政治力なのだろう。源氏物語というのはロマンのように読まれているが、あれは政治権力の物語であって、まさに複数の女を飼いつくせる男というものの本質を描いたぞっとする小説だ。あのなかで、作者の一人(私はこの物語は男が女をつかって書いたと思う)の女は、そっと自身を紫にしのばせて、男というものの政治性に最大の復讐を試みようとしているように読める。復讐とは愛でもある。源氏はその愛の前に蹉跌していくし、男のそうした矛盾は宇治の物語で笑劇となる。
 と書いて、源氏物語とはその作者の男へのその女への復讐でもあったのだろう。天皇制とはそうした女の政治の場でもあったのだろうとも言えるのだが、その政治性は天皇制の内在として保持されたものでもない。