通じないなというこというか

 どうもそれ自体が通じないみたいだが、通じてほしいというのはあるけど、通じないのはしかたないと思う、というか、私の人生、自分の思いが通じたというか、コアの部分でコミュニケーションできたことというのはないので、それが常態。
 ただ、ちょっと違うかと思うのは、もう四半世紀も前になるけど、パソコン通信を始めてみると、少し通じる人というのは世界にいるものだなとは思うようになった、というか、それまでこっそり本食ってる虫だったわけだが、そういう虫は広い世界にはいるにはいるのだろうというか。
 長くこの世界にいると、その「少し通じる」というのが微妙な陰影を持っているというか、多様な陰影を持っている。ある意味、ひどいしっぺ返しみたいのも何度か経験した。というか、そういう経験を通して、パソコン通信の世界での「通じる」というのは、最初からそういう何かしら別の様式があるのだろうと思った。
 で、依然、結局、そうした側面というのは、私の実人生には表面的な雑事というかそういうレベルでまったく影響がない。というかどうも関係ない。私の身近な人や少ない友人(そこに10年来のネットの友人も入るなと今思うが)が、まあ、私という人間をわかっている(しょーもないやっちゃというか)。でも、それは、私と限らず、人はそういうふうに身近な世界に受容されるという以上の意味はないし、なんというか、私もそれ以上の期待はない。
 ただ、最近は無用な誤解の増幅とか、以前にはなかった強い憎悪みたいのを感じるようにはなった。実人生の経験的ななにかを持っていると、そこまで誤解はできないし、そこまで憎悪はできないんじゃないかと私などは思うが、どうもそうでもない変化はありそうだ、という時代なので、それに合わせて私のほうが変形していく。