曇天

 私事いろいろあってぐったり疲労。考えていくと、というかヴェイユの予想ではないが、結論としては、俺がダメだ予想というのがあるのだが、それなりに世界とか人間関係をかしゃかしゃ計算していってEnterキーを押すと、YOU ARE RIGHT!と出てくる。考えてみたら、人生いろんな局面で、いろいろ検算しても俺が正しいと出るならどうあってもやってしまえみたいなことはあり、それで辛うじて切り抜けたことがあった。振り返るに、自分の直感を括弧でくくり、まるで離人症のように自己を離して計算するようなリゴラスな部分とで生きてきたことがあるが、ある種の関係のなかではその双方が効かなくなる。そして思い返すに効かなくなった部分は無意識=身体に沈んでいってなんらかの自死的傾向を表現してしまう。生きるには、直感も計算も越えてまず生きることを選択しなさいというふうに、神のようなものが現れるように思えることがある。生と死をあなたの前に置いた、どちらか選びなさいと。そこでは自由がないように思えるが、生きる選択とは一種の恩恵なのだろう。少なくともその線上に自分がいる。
 このところネガコメみたいのがない。あるいはどっかでなんか言っているのかもしれないが、はてなが壊れているのかリファラみたいなものも狂っている。というか、それ以上に関心がない。が、なんというのか、そうして静かになってみると、以前とは違って、ある一群の人が嫌いになった。こういう言い方は変だし間違っているのかもしれないが、私はそれほど人を嫌悪しないというか、嫌悪のスレショルドが無意識的に強いだけかもしれないが、人にはいろいろあるだろう。人にはそういう在り方が選べるだろう。そしてそのような人と私への関わり、例えばここではネガコメとかあるとき、ある種自分の無意識への問い掛けのように受け止めてきた。が、どうも、ただ嫌いというかキモーとかになりそうだ。自分の寛容性が減ったのかもしれないし、より普通の人になったのかもしれない。
 そういえばいくつかのことが終わり、いくつかのことが始まる。始まるかと思えて始まらなかったこともある。ある運命のような機運のようなものが寄せてきて雨も降らさぬ暗雲のように去っていた。それはなんだったのだろうかとも思う。わからない。運命というか偶然とかいうものは意味の側のネットワークの問題であり、どうも今の生きる・考える・行動するという意味づけの反照を受けている。ただ、その生きる・考える・行動するというも無意識的な情動の反映でしかないのだろう。
 話は変わるが、「 吉本隆明に関する12章: 本: 斎藤 慎爾」「 人生の鍛錬―小林秀雄の言葉: 本: 新潮社」を読んだ。どちらも率直に言えば本の形をしているが本とも呼べないへんなものだった。悪いわけではない。吉本のほうについては和子夫人の近況などがあり彼女も80を越えてお婆さんになったのかというと、吉本のほうが80を越えて恋愛の青年のような意識を持っているのかというあたりになにかぞっとするようなものも感じた。まあ、見事な対性の人生だし、それが思想というものだろう。小林秀雄のほうについては年代別になっているせいか、彼の思索の結語が本居宣長に集結してしまうし、およそ本居宣長の抜き書きなど意味はないので奇妙なものになっていた。しかし、こうした本でも読まれるべきなのだろうか。