イエスの孤独

 北森嘉蔵牧師をネットで検索して、もう10年近くも前に亡くなられたことを知った。失礼な言い方だが、なんとなくそう思っていたが、いつお亡くなりになったかは知らないでいた。
 ⇒北森神学とは何か
 北森牧師にお会いしたことはなかった。少しばかりお会いしたい気持ちはあった。書籍からはいろいろ学んだ。牧師は神は痛んでおられたと語った。痛みとはまさに痛みだった。遠藤周作のイエス像にもそれに近く、痛むものの同伴――永遠の同伴者――が描かれているが、牧師の神学の根幹にはただ痛みがあった。そして絶対的な孤独があった。(カトリックの信者にとってイエスの痛みはごく当たり前のことかもしれない。あるいはそれ以外のキリスト教徒にとっても。)
 北森牧師は私の理解を是とされないかもしれないが、いや、是とされるのではないか、あの十字架上の「エリエリレマサバクタニ」を牧師は、イエスが神に見放されたと見ていた。牧師にっとて、痛みの意味は、人に捨てられることであり、孤独のなかで見捨てられて死んでいくという人の、本当の姿であり、そこまで神が降りてこられることだった。
 人となった神が孤独にそして見捨てられて死んだ。世によって殺された。
 多くの人々が神に抱く希望のようなものが一切失われている。だが、そこに牧師は神学の根幹を打ち立てようとした。
 私には信仰というものはない。あるのは孤独だけだ。その孤独は絶叫するような痛みを伴う。そんな夜に北森嘉蔵牧師を思う。牧師は孤独と見捨てられる痛みのなかに神の栄光を見ようとした。
 イエスは私にとっては孤独な人である。見捨てられた人だ。それは十字架上でそうなったというのがキリスト教の文脈であろうが、異端者の私は別のことを思う。
 私はイエスの孤独はその従う人のただ中に、愛を語るただなかにあったと思う。
 聖書で一番好きな箇所と断言しづらいのだが(いろいろ好きな箇所がある)、いつもイエスを思うときに思い描くのは、ヨハネの中にたぶんルカの断片として混入しただろう、あの罪なき者が石をなげなさいというエピソードのなかのイエスだ。イエスは、罪の女を許しはしなかった。(もっと単純なことなのだ。罪の女が愛を示しているならこの今のその行為のなかに許しの契機が過去に存在しているのだ。愛がある時すでに許しがあるのだ、あたりまえではないかと。)
 イエスはくったくしていた。当たり前すぎて彼の関心事ですらなかった。強く語ったふうでもない。イエスはその時、地面に何か描いていて、その地面の絵のほうに関心があったのだ。
 イエスは何を描いていたのだろうか。私はその無意味に近い問いを40年近く抱えてきた。図であろうか。計算式であろうか。しゃがみ込んで何を描いていのだろう。人々への説教よりも大切な自己を没頭するような孤独な行為。
 聖書学を学んでもその答えはなかったが、アウトラインはわかる。このエピソードは別のコードを持つ人なら解読できるなにかの暗号のようなものなのだろう。そしてそのコードはもはや失われた。そして、実際のイエスはそんなこともしていないし、イエスはおそらくそのように存在もしていなかっただろう。
 それでも、私の心のなかにはただ孤独に地面にうずくまり、なにかを描いているイエスの孤独な姿だけがある。

「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。(ヨハネ8:4-8)