ちょっとこれもメモ、増田

 増田⇒人が神を作った

 人並みに悩みを抱えてるんだけど、聖書の一章節に救いを見つけ出してる。
 それが正しいか間違いは宗教ではなく自分自身の選択によるものだから、そこから生まれる悩みなんかとも戦ってる感じ。
 まるでカラマーゾフの兄弟の『大審問官』のような葛藤。
 宗教的な理由で婚前セックスはできなかったんだが、それがない熱い恋愛もあるんだなあって。
 僕自身の考え方は「人が神を作った」の一言、だから聖書も最古の書物として読むしどの宗教にも入らない。
 彼女達はそれを理解してくれて、だからこそ僕みたいな男に興味を持ってくれたのだと思う。

 いわゆるクリスチャンの人がどのくらい聖書を理解しているか、というのは聖書の理解とは何かにかかっていて、まあ、普通は問題にしちゃいけない。ちょっと私も過去にいけなかったかなと思うことがあるけど、クリスチャンじゃない人だったら、聖書のこういうのは常識で知っておいたほうがいいよとかは言うが、クリスチャンの人にそういうのはちょっとためらう。私はただの聖書オタでしかないのだし。
 ただ、その信者たちの生き様と聖書にはなにかねじれのようなものもあるようには思うし、そのねじれは世代を超えて出そうでもある。
 で、と。
 日本人は、人が神を作った、という。そう言わないとトンデモ扱いもされる。しかし、常識人であれ、自分の人格の由来というのはわからないものだ。遺伝と環境でしょとかとりあえず言う。親の資質を継いでいるのは確かだし、環境とか時代の影響はもちろんうける。しかし、実際の自分の人格のコアにあるものは、なにか奇妙なもので、運命というか天分というか、なにかしら被造的なものも感じられる。ああ、己の人生というのはなぜこうなったのかというと不運だけを責められるものでもない、そういう選択を自分で引き受けるようなある種の従順さというか天命のようなものに折れるなにかがある。
 まあ、そのあたりが、神が人を作ったという意味でもあるように思うが。