晴天、梅雨は何処に

 天気図を見ると気圧の基本的な配置はこんなものかだが、こりゃ雨は降らないというか降れないな。
 昨晩は緑エビスがやけに旨い感じがした。ホップがすっきりと薫っていた。ビールが旨いっていいなと思った。あとエールを飲んだ。私にしてはちと飲み過ぎ。
 中村中の友達の歌を聴いていて、ちょっと心にひっかかる部分があって。

笑われて馬鹿にされて
それでも憎めないなんて
自分だけ責めるなんて
いつまでも 情けないね

 このあたりの情感は、まあ、わかる人にはわかるだろうし、私などはどちらかというとわからない部類に近いのかもしれないが、中村中という人のことを少し知ってしまったせいか、これは世界というものの理不尽さなのだろうとも思って、泣けるとういか、ぞっとする悲しい感じがする。
 男とは、とか吹かすほどバーカにはなりたくないもんだが、男とは男だと思っている存在だし、女とは女と思っている存在だから、だから、男らしい男は女として生物的に生まれてきて男だと思っている男、女らしい女は男として生物的に生まれてきて女だと思っている女、ということなのだろう。
 言うまでもなく、そうした部分での性自覚の意識というのは共同幻想性(社会性)によるものだ。
 ただ、この生物的にその上に性幻想をのっけている多数の人にとっては、その自然的な同一性の奇妙な身体的な権力のようなものを持つ。まあ、朝っぱら考えるこっちゃないが、岸田秀が言うほど人間は幻想的ではないというか、意識が幻想ではある、が、性の衝動のある部分は内臓的に構成されている。その部分で男と女は違うといえば違うのだが、それは共同幻想性(社会性)における差異ではない。
 このあたりは議論がとても難しい。幸いにして私はこの問題が自分の人生の課題としては与えられていなかった。避けていたのかもしれない。私は中村中のような存在と恋愛するという事態はなかった。また、自分が彼女のような存在でもなかった。
 ネットを見るようになって若い人がちが肉便器という言葉を使っているを知って、それってれいの沼正三のあれかと勘違いしたが、ようするに射精とは小便の類でその受けの女の身体は便器だとでもいいのだろう。まあ、いつの時代でもそんなことを言う人いる。が、そんなわけはない。ただ、そんなわけはないの議論を展開する気力もない。
 ま、どうでもいいや。