ネットの言論はクズ

 ⇒切込隊長BLOG(ブログ): 新聞社OBに「ネットの言論はクズだ」とボコられる
 ま、そりゃ、ネットの言論はクズでしょ、またーり、みたいにも思うのだが、言論とかいうときのスコープが違うのな。非モテとか非コミュとか、俺くらいの歳のフツーの男とかから見ると、別に情報業界場末の中小企業社長さんにぶいぶい美学を語らせるまでもなく、バカじゃねーこいつらってことになる。で、ま、端的にネット側から応答すると、爺、氏ね、つうことになる(そして俺も爺だ)。そのあたりのズレの全体構図がわかってないとネット言論の持つ潜在的な意味はよくわかんないですよ。ってか、補助線的に言えば、吉本隆明が80年代にマスイメージ論あたりでサブカルチャーを文学と同一地平に置いたあの柔軟性みたいなものが、今、ネットの言論で起きているのに気がつかないやつ、ゆっくり寝ていてください、というか、言わなくても安眠しているげ。ま、俺くらいの歳でも気がついている人はいますよ。中に入ってフットワークしたら気がつきますよ。梅田さんが語ることは、はてなで実はそれほどインパクトを持ってないふつうのことだということを梅田さんは知ってますよ、ってか、何かが見えているわけですよ。別に梅田さんに限りませんが、そのあたりのよくある用語で議論されているものと、かなり違う何が今ある。
 で、と。
 切隊さんのこれだけど。

finalvent爺が毎日社説の解説をやるのを回覧、しかも紙でプリントアウトさせてから読むデスクに対する罵倒まで一通り出たのち、表題の内容になったのであります。

 つうわけで。聞屋さま、finalvent爺の「ネットの言論」はクズと。ありがとうございました。
 まあ、クズでしょ。
 ちょっと弁解するとべたにクズというのと、クズしか書くわけねーじゃんの2面がある。後者だと「じゃ、本気なら書けるのかこのクズ」「極東ブログがクズじゃないとか言いたいわけ」とかなるか。まあ、私は自分がそんな大したタマではないというか普通の人生の落ちこぼれ以上でもないのだが、この面だけでいうと「極東ブログ」の全容と意味はあまり通じてないかとも思う、が、と実は仔細に見ているときちんと書いた部分は誰かに読まれている感じはある。ま、この手の話はリザルトがすべて。私のネット言論の橋頭堡は「極東ブログ」しかない。それにクズ評価なら、それはそういうものでしょ以上はない。どうぞご勝手に。
 で、仮に、「クズしか書くわけねーじゃん」の意味が通じるとしたら……通じないでしょうけどね、ま、仮にってことで、これもベタにいうけど、カネにはならないわリスクは背負い込むみたいわみたいなこと50歳の男がするわけないじゃないですか。そのあたりを斟酌しねーでクズ呼ばわりとはなんてお子ちゃま。ネットの言論、つうか、ブログとかで、匿名性とか言うけど、匿名なんてないんだってば。バーカが勘違いしている向きがあるけど、普通にブログとかするなら、それだけでリスクを抱え込む。そのリスクでカネになんない程度のお楽しみでやる以外はないようにできている。ってか、アルファーブロガーなんてお笑いの対象になっているから存在できるのであって、それなりに尖ったら、つうことは、言論っつたってようするにカネと利害の世界ですからね、利害の力学にぶつかるわけですよ。そうなったらどういう末路を辿るくらいのことはわかるものですよ。だから、そういう利害の面にはできるだけ触れないようにしていると、おやま、クズ、おらあクズラだどん、ですよ。

 で。

確かに、ネットで流通している、ネット上で読める議論と、彼らの目線はレベルが違う。新聞記者も二十年選手になってくると吸収する力も衰えてくるし、新しいモノの見方も合点がいかなくなる、でも、ネットでいくら良質だとされる議論でもバラして構造を見るとまだその程度のレベルなのか、ということになってくる。

 それはべたにそうだね、という部分と、その目線の内実。つまり、切隊さんは「新しいモノの見方」に爺たちは焦りもあるのだろうと見ているのかもしれない。私はそこはわからないが、私の聞屋観でいえば、こいつら、プロ、つまり、それで飯食っている技能があるということ、情報のインサイダーという二極だけだと思う。技能のほうはネットでもどこの世界でもそれを越える人が出てくる可能性があるユビキタスなものだが、情報のインサイダーのほうは、ユビキタスではない。聞屋たちは日本の政治の内実のインサイダー情報をいっぱい知っているし、その蓄積もある。それにネットの言論ってかアウトサイダーがかなうわけないじゃないですか、ってか、もしかなうなら、歴史に視点を置くしかない。
 で、このインサイダーというのは聞屋だけじゃなくて、官僚と産業が結託している。ジャーナリストならそれを出せと言いたいものかもとナイーブに思う人もいるかもしれないが、そんなもの出せるわけないじゃないか、カネとリスクを考えろよバカ、と聞屋は思う、っていうことが、ネットの言論はクズとバランスしていることに気がつかないのが聞屋ってもの。
 だから、このインサイダー性が効かない情報分野になると、聞屋の書いていることは、別途専門なりの裏付けの手間を省くとぼろぼろになる。科学分野とか国際政治とか、愉快なのはそれにイデオロギーなんかも風味付けになって面白いが。まあ、そのあたりは、ネットの言論というより、ユビキタスな知性が聞屋風情を越えるかということで、Goolge様のインパクトがどかんと日本にもありますように。
 そんなところすか。
 熱くなっているみたいに見えるか。けっこう俺は単純に自分のクズ性を認めるつもりだけどってか略。
 ちょっと言い残し。

はてな? あんなの子供が遊ぶ砂場の話じゃねーか」

 技術面についてはその評価のほうがバーカバーカ以上のものはないのでそこは略(本当は略さないほうがいいけど)。で、非モテ非コミュとかあのバカみたいな議論は、私は、これこそ思想だと思っているという話を付けたし。ここはちょいと爺らしく熱く。
 以前も書いたけど、私の世代までは左翼的な知識人みたいなものがあって、それがべたに言えばモテツールだった。で、そこでなにがあったかといえば、もうもうべたに言えば、中絶ですよ。偉そうな言論の裏にあった男女がしていたのはそんなものばっか。そうした「本当はそれってお前らの倫理課題、思想課題だろ」みたいのをスルーして高尚な知的議論だとか知的っぽい仕草みたいなのを繰り返していた。どうしようもないものが広まっていた。俺の世代より上の知識人はだから噂の真相で叩くのが正攻法みたいなね。
 懐古すると、私はちょうど青春のただなかで、中ピ連が崩壊していく過程を薄目でそれとなく見ていた。私はあの滑稽な榎美沙子をすてきなお姉様と見ていた。美人だったしな。やさしい声の人だった。きちがいといえばそうだったかもしれない(シモーヌ・ヴェイユだってきちがいだろ)。でも、私は彼女の狂気に共感できた。思想とはこういうものだ。彼女は潰れた。潰れるべくして潰れたのかもしれないが、あれを社会が潰したと見てもいいと青年の私は思った。
 ここに思想の戦場があると思った。戦士は罵倒され、滑稽な磔刑となる。そんなものか。
 でも、まあ、ちょっとというか、その戦場で社会の側が勝ったことで、社会はとんでもない復讐を受けた。オウムにはフェミニズムの問題があることも語れなくなった。
 クズの私は、がんばれ非モテと思う。増田よ語れと思う。あのバーカにしか見えない延々たる議論が本当の思想の活動だと信じるほど、俺はバカでありつづけるよ。クズでありつづけるね。