日経 春秋(3/19)

 オマージュ。

 電車の中で中年サラリーマンが携帯電話を始める。顔をしかめる若い女性がいる。マナー違反だと視線を送る。中年サラリーマンは気にもかけない。気合で「だめだよぉ」とどなって回りを引かせ、丹念に小言をつぶやいていく。その集中力に、若い女性は敗北感をかみしめる。▼通勤電車での携帯電話は見慣れた光景になった。不快極まるが、居心地の悪さに対処しようとする女性は多くはあるまい。仲間と連絡をとる目的は同じなのに、たとえば手帳を取り出し手早くメモする男性の姿は、むしろ好印象となる。その違いは何かと思案していたら、ある道具の有無に気づいた。手鏡である。(中略)▼駅構内の手鏡もまた、異空間につながる回廊に違いない。のぞき込む男性は、もうそこには存在しない。どこか別の奇麗な場所に逃げ出している。猥雑(わいざつ)な仕事社会に置いてきぼりを食った尾行警察官は本当は寂しいのではないか。すれ違うマナー論議を乗せ、今日も通勤電車はひた走る。