正月くらいは

 正月らしくしてようかと思ったが、なんとも無沙汰な感じで、本や週刊誌などを読む。永遠に待っている床屋の待ちベンチのようなふうでもある。もっとマシなものでも読まないのか堕落した俺とも思うが、だめ。
 早々に退屈し、昔懐かしい町の神社に初詣に行く。風景はもちろん変わった。人の賑わいはそれほどでもない。さびれているふうでもない。50mくらいの行列のケツについて横のテキ屋を見る。テキ屋の売り物も価格破壊かというか賑わいも乏しい。場末の神社だからか。
 賽銭を投ず。中から貧ちゃんが出てきて、私さびれてますぅ♪を歌う。ということはない。鈴を鳴らし、柏手を打つ。形だけ。私は神仏に祈願しない。
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 通りを歩いていると元旦なのに開いている店がある。コンビニが開いているのはそうだが。
 ドイツではこうした店舗の規制が厳しかったとのことだが、たしか昨年緩和された。とはいえ、こうした緩和の法は地方行政に委ねられている。地域によっては日曜日やクリスマスに営業というのは違和感があるだろう。私も元旦くらい小売りは閉めろやと思う。美しい日本に合わないのではないか。まあ、ご時世。
 帰宅してなにげなくラジオを付けると、富士山から転落したという話。悲惨は悲惨だが日本の正月らしい。餅を詰まらせて死ぬ老人もいるのだろう。ラジオでは新年暴走族の取り締まりに警官2000人を動員とも。ご苦労様。そんな必要があるのだろうか。まあ、あるのだろう。よくわからんない。
 ぼんやり買い物で詰めた重をつつき酒を少し飲む。年末澤ノ井を買いそびれて人に買ってきてもらった紙パックの酒を飲むとうまい。おや。こんなことってあるのか。俺の味覚も地に落ちたか。そういえば、昨年秋だったか、吟醸酒を買ったらとんでもなくまずい。他も買ったがひどい。吟醸酒ってどうなってんだと思った。
 無為な時間が過ぎていくと、ああ、俺は本当に年取って爺さんになってしまったんだなと思った。夏目漱石の享年近し。及ばないないものだと思ったが、ふとそうでもないな、いつのまにか漱石先生すら若々しく思えてきた。ブログのほうでオメーは漱石とためをはりたいのかと頓狂なコメントをもらったが、若い人には通じないものだ。年寄りはみなそう思って黄昏れ、さびれて、消えていく。ただ、私の上の世代はそこがないのだろう。米人もあまりない。心の持ちようかもしれない。
 ほろ酔いでユーミンを聞く。ちょっと若い日を思い出して胸がきゅんとなるのだが、そういえば彼女は子を産まない人生であったな。母とならない女の人生というものがある。それもまた人生なのだろうが、人はみな母とのやっかいな関係に置かれるし、女の少なからずは当事者となる。