この手のことに言及するのは野暮なことだが

 ⇒童貞の皆さんに言っておきたいこと (セックスなんてくそくらえ)

いくらセックスをしたところで、あなたは一人ぼっちです。

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 私はこの問題はというか、問題ということにすると、世の中の人に美醜があるのと同じくらい難しい問題で、しかも、そのかすかな真実が語られることが少ない問題だと思う。というかこの問題はうまく言葉で語れない部分を含んでいる。しかし、あえて言えば、「いくらセックスをしたところで、あなたは一人ぼっちです」ではなく、「一人ぼっちであることを確認する虚しい多数のセックスがある」ということのほうが正確で、私は男だからそしてあまり性的な経験に乏しいのだが、女を多数抱けばそれはそれだけ女のクラスの理解になるが、生身の女というのはクラスからインスタンス化したものではないことを忘れる。人クラスから「私」が生成できないのと同じなにか謎がある。
 この問題は人が肉体と裸体を持っていることとセックスに関係する。なぜそうなのかという、形而上的な問いかけがどこかにある。と同時に、裸体=肉体(サルクス)=愛情というなかで、神が啓示の声ではなく、肉体で復活したというメッセージの深淵がある。ま、そういう言い方がすでに宗教的に誤解される。
 ただ、人はその人生のなかでなにかを知る。

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愛情セミナー: 遠藤 周作

「人はなんのために愛するのか」。その答えは今やおぼろげながらも形をとりはじめたようである。「人は相手を信ずるために愛する」とまでは私は言わない。しかし人がもう一人の人間を愛する時は相手を信じようとすることからすべてが始まることは確かである。
 現代ほど人間が信じあえぬ時はないとあらゆる活字は書きたてる。現代ほど人が一人ぼっちである孤独な時はないようにマスコミは叫びつづける。
 そして、そうした人間疎外や人間の孤独を売物にしているインテリがいかに多いか。そうしたインテリたちが本当に孤独なのかその眼を見ればすぐわかる。彼等の甘ったれた表情を見ればすぐわかる。諸君はそんな自虐的でいい加減な言葉にだまされてはならぬのである。
 人間は決して孤独であってはならぬし、人間はもう一人の人間を信じるようにせねばならぬ。

 それは君の恋愛を大事にすることなのだ。恋愛は誰でもできる。そして誰にでもそれを楽しんだあと、使い捨ての紙のように人生のどこかに放棄することもできる。そんな放棄は実にやさしいことなのだ。
 そしてそれはやさしいことだから、実にツマらぬことでもある。
 だが自分の今日の恋愛をいつまでも持続させることは田中君にも大平君にもできることではない。恋愛するとは偶然のチャンスから生まれ、わずかな対象をえらぶという相対的なものにすぎぬが、その相対的だったものを一生かけて絶対的なものに変えることだって、君には可能なのだ。

 諸君は人生と愛する者とを比較して考えたことがあるか。この二つには何と似た関係があるだろう。人生は若いうちは魅力的で美しく、楽しいかもしれぬ。だが時がつもるにつれ、人生のみじめさ、辛さがはじまる。人生はもう青春時代のように美しくも魅力的でもない。
 しかしその人生を捨てぬこと、人生を背負うことが人生にたいする「愛」である。時には自暴自棄となり、自殺の欲望にかられても、ふたたび重い人生を負うて生きるのが「愛」である。

 まあ、神父さまでも言いそうなお説教なのだが。遠藤がここでレトリックに隠して伝えていることは、孤独とは自殺の欲望だということだ。
 なぜ愛さなくてはいけないのか、は、なぜ生きなくてならないかに似ている。なぜ孤独ではいけないというのか。それが、説教で終始しはしないよ、地味な醜い愛するという契機にかかっているのだよ、という奇妙な問題でもある。その原点には、なぜ人は他者を「信じようとする」契機が存在するのかということだ。冷笑家ですらその滑稽な日常の心の動きの底には「信じようとする」契機が雑巾のように残っている。
 もっと言えば、美と快楽で人の若い時代にそこに人を引き込ませる大きな罠のようなものがある。罠と言えば否定的だが、これはレトリックで、人の存在の救済の契機とだって言える。どう評価するかではなく、その存在の不気味さだけが問題だ。
 遠藤のこの本の結語には肉体の問題は捨象されているかのようだが、この本全体ではベーストーンとして肉体の問題が深く関わっている。おそらく愛はそうした肉体の契機を必要としているということであり……まあ、そういうことだ。
 話はずこっけるが、金日成金正日という悪魔のような人間がいる。しかし、人間というのは子細に見れば悪魔ではない。歴史の張り子の虎まではいわないにせよ、ある役割をこなしているだけに過ぎないかもしれない。だが、それでもこの親子の物語には不思議にも愛情や孤独の影が見える。そこだけはどうしても隠すことができない。彼らは悪魔のような人間であってもそれでもスケールにおいて偉大であることには違いなく、我々の大衆のゴミのような存在では対峙もできない……とそう思うのだが、ここでも世界は奇妙な光を投げかける。
 私は、曽我ひとみさんが再会した夫のジェンキンズさんと抱き合う光景(映像)が忘れられない。あのとき、彼女が金正日に勝ったのだと思った。奪回というストーリーからすればそれは初戦ではあっただろうが、私はそのすべての勝利を確信した。ここで言うのは宗教臭くていけないのだが、イエスが私は世に勝ったのだという意味合いのようななにかを感じた。
 曽我ひとみさんは運命に翻弄されなければ普通の市井の小太りなおばちゃんだっただろう。そしてそれはひっそりと幸福であっただろう。誰がそのおばちゃんに一国家の独裁者の偉大さに上回る力を秘めているなどと気が付いただろうか。しかし、彼女にはそれがあった。
 私は愛というものがそれほど抽象的なものだとは思わない。また、その多くが市井に語られることなく潜むのだということも知っている。そして、にも関わらず天地が割れるようにその偉大な光景を見ることについて、この世には奇跡というものがあるのかもしれないと思う。