それはすごく違うんですけど

 たぶん通じないと思うが。
 今頃見たのでちょっと。
 ⇒2006-11-02 : おしゃべりSchwaetzerの飲んだくれな毎日

という断定は、どう読んでも、あくまでもfinalventさんの主観でしかない。主観と言って適切でなければ、思い入れ、あるいは熱い想い。そういうところから、「私は彼らの思いをどうくみ取ってその裔に伝えるだろうか」というfinalventさんの吐露がでてくる。

 主観云々のところは、まあ、なんというか、長い議論になるので割愛。

「存在の規定」からも、もっとはっきりわかります。そこから出発して、そのような規定を(いわば勝手に)父祖に当てはめつつ書き手の熱い想いを託している。あるいは熱い想いがあるからこそ父祖にまでさかのぼって想像した上で詠嘆する。なるほどfinalventさんの立ち位置はここにあるのだ、ということがよくわかるわけです。

 で、これはすごい誤解だなぁ、しかし、通じないのだろうなと思うのは……

しかし、私のほうにはそういう熱い想いがない。「日本人」意識を祖父母や祖父母の祖父母にもっていくということをしないし、そりゃ無理だよと身内の集まり見てても思う。

 それは全然違うのですよ。
 私は、『「日本人」意識』というのをそういう内的なものにとらないのです。というか、そういう意識は原初に想定しないのです。しいていうと、『「日本人」意識』なんてものはないんです(日本人の内側にいるかぎり)。
 (というかそんな内向志向的に考えないのですよ。)
 たぶん、べたな左翼の人は私を馬鹿な右翼に見たいのでしょうけど。
 そうではなくて、日本の、日本人の使命というのものを考えるのですよ。私はこういうとこれも誤解の元だけど、普遍主義者なんです(これはわかる人にはわかってもらえているので言うに野暮だが)。
 日本が普遍的な人類世界に投げかけている使命はなにかと考えるのが私の社会思想の根幹なのです。そして、そうした普遍性に向き合うとき、自己の使命・役割・責務を受諾するとき、最初に普遍を置かない。つまり、日本人を超越した立ち位置から偽装しない、ということなのです。なぜかという単純な理由は我々が、他者から見れば日本人だということでもあるのです。私たちとは歴史のなかで私たち(つまり父祖です)がなにをしてきたかという刻印を引き受ける、そしてその引き受けるという歴史存在を使命として再確認するということなのです。
 べたな左翼さんたちは日本人であるまえに人間だ、中国人・朝鮮人も同じだみたく言うには言うのでしょうが、私たちは歴史存在であるからこそ、実はそう最初には言えないのです。彼らに向き合うときまず我々が歴史存在(父祖ということね)である責務の関係性のなかで民族として現れる。それをどう普遍のなかに照射していくことが課題になるのです。
 私のこの問題意識は、これも単純にいうのですが、私の人間観の根幹にあるパウロによるものです(こういうと信仰のようにまた誤解されるのでしょうが)。私は一時期パウロという存在をイエスよりも追い、自己の思想の根幹として捕らえていました。そのため、パウロの歩いた道を歩き、水難の現場に立ち会おうとしてました。そうした思いは、ある意味、父祖への熱い思い以上のものがあるのですが、そのなかで、パウロというユダヤ人(そうなのですパウロユダヤ人なのです)が自身の歴史存在、民族的な存在をどう捕らえていたか。彼は、キリスト教の文脈では、早々にクリスチャンとされ、そしてその布教者のように見られていますが、そうではないのです。彼の行動・言動それらは、自身がユダヤ人とはなんであるかという歴史存在の了解を普遍に投げかけたものとしてあった。
 その構図の意味合いは、人が歴史存在(父祖による)というありかたがどのように普遍性、つまり簡単に言えば、世界平和ですし、人権の確立です、そういうものにどう理路と実践を結びつけていくのか、ということ。なにが人(パウロのように)をそこに駆り立てていくのか。それは父祖という民族の限界性のなかにおいてのみ啓示(あえてバルト風に言いましょう)されるものを了解するしかなく、その了解性とは、彼らの私(末裔)への愛の了解なのです。(そして悲しみの了解、なぜなら、彼らは普遍に立てないことを私に托すしかなかったのです。)

I for Japan;
Japan for the World;
The World for Christ;
And All for God

 Christを「全ったき人」と読み、Godを「普遍」と読む。