日経 春秋(10/27)

 よい。こんなによいコラムを春秋で読むとは思わなかった。これがいつもボケコラムと同じ執筆者だとしたら、野暮なツッコミをしていた私が自身を恥じる番だ。

抱擁家族』の30年後を描いた『うるわしき日々』。記憶を失っていく妻を家に残し外出した男は「これから10年をどう過ごすか」を思いかがみこんで泣く。手にしているのは大量消費社会を象徴する「コンビニの袋」。今の日本人にとって米国とは何なのか。小島さんの言葉を、もっと聞いてみたかった。

 つまり、戦後の日本の社会と民衆というのは、これなのだ。これを描き出すのが文学なのだ、と。
 米国という国に負けた民族としての日本人というものがコンビニ袋を捧げてしゃがんで泣く男そのものである。地べたに貼りついている日本人ですら敗戦の本当の屈辱を生きてきた。それをイデオロギー化すれば屈辱に反発したりそれを受け入れることを是とする倒錯になったりするだろう。しかし、その屈辱には平和と繁栄の奇妙な色合いもあった。
 私の祖父母は明治時代の人だった。彼らの祖父母は江戸時代の人だった。みな日本人だった。彼らが日本人であることを、その裔の私はどう受け止めたらいいのだろうか。彼らはなぜ私をこの国に残したのか。私は彼らの思いをどうくみ取ってその裔に伝えるだろうか。