キャズムねぇ
⇒キャズム とは | マーケティング用語集 | ミツエーリンクス
イノベーターとアーリー・アドプターで構成される初期市場と、アーリー・マジョリティやレイト・マジョリティによって構成されるメジャー市場のあいだには、容易には越えがたい「キャズム(深いミゾ)」ある
ほいではてなとのコンテクストでは
これ?⇒キャズムを超えろ! - CGMサービスがキャズムを越えることの難しさ 〜はてなはキャズム越えに失敗した!?〜
そういう観点から「はてなはキャズム超えに失敗したのではないか?」と思うわけである。はてブがキラーコンテンツになりうる、と判断できるだけのブクマ数が集まった時点で、一般人向け施策を考えるべきだったのかもしれない。
のわりに、他のSBMが成功してないわけだね。
gooのランキングとか見るに耐えないし。
話はちょいと変わるが、例の「鏡の法則」って、あれって、2ちゃん的にはどう?
どっかで話題になっているのか? 批判もねーのか?
もしそうだとしたら、あれは、mixiからブログの現象だったわけで、ちょっと面白いケースではないのか?
さらにずっこけるが、ID論のときのバッシングはけっこう息巻いて疑似科学だとかぬかしていたやつらが、NLPとかサイントロジーとかスルーってどうよ?だが。
で、キャズムだが。これ自体はえらく古いが。
![]() キャズム |
がだ、それを牽引するテクは不可欠。
そういう意味では、現在のはてなは別に問題でもなく、それをマーケット的というかビジネス的なカネのフローを作る体制ができないことが問題だが、Google様を見ていても、できそうにない。
というか、どうやら今回の事態は本格的になんか異質な事態なんだろうと思うし、御利口さんが安々と批判している梅田本はそうやわっちい本でもない、と思う。
というか、このアスペクトはどっちかというと、GoogleよりYouTubeのほうに移行しつつある。
⇒My Life Between Silicon Valley and Japan - YouTubeについて(1)
⇒My Life Between Silicon Valley and Japan - YouTubeについて(2)
クライナーやセコイアは、シリコンバレーの歴史上の創業者たちの「器の大きさ」についてのデータベースを感覚的に持っている。若者を見ながら、こいつは誰くらいの「器」なんだろう、という値踏みはいつも皆が行っている。つまり、グーグルのページとブリンは、ビル・ゲイツ並みの「器」という判断がなされたことを意味するわけだ。果たしてYouTube創業者の「器」はどの程度なのだろう。それをじっくりと見てみたいと思う。
意外にこういう問題だったりする。
⇒My Life Between Silicon Valley and Japan - YouTubeについて(3)
話はちょっとずれるのだが。
そう、僕らの世代の大半は、この新しい感覚に対して半信半疑だ。でも若いときからYouTubeを視聴して育つ世代は、情報は溜め込まずに消費し、必要なときにアクセスするのが当たり前になるのではないか。もちろん物凄い解像度で見ないと楽しくない映像は特別扱いされるだろうが、消費してしまえばいいやという程度の映像ならば、情報行動はそんなふうに変わっていくのではないだろうか。
はてな的なものを見ていてというか、ブログを見ていて思うのだが、いわゆるソースはどこ?的な発想の白黒さというのは、四十代に向けて人間が渾身で思索していくときに大きな弊害になる、と思う。
それと、梅田さんが下の世代に感じる情報行動への違和感というのが、別の意味でのキャズムとなって、あえていうと我々(45++)に向けて起立している感じはする。