まあ言いづらいこともあるのだが

 Dr.苫米地も沈黙しているが(知らんだけか)。
 鮫島GJ⇒アノレファコメンテーター詰め所2.0:バージョンアップのお知らせ - livedoor Blog(ブログ)
 わざとらにはずすと、編集とはなにかなとは思う。
 ナマに近いほうが意義あることもあるし、ブログではそうかとも思える。
 ただ、ナマは読めたもんじゃないというのはあるというか、いちおう商用ジャーナリズムというのは結果的にそう。
 で? みたいな話でもあるが。
 で。
 ⇒売文日誌 - 焼き栗拾い

そういった関心の方向性と知的な能力との適正から考えて、むしろここで引っかかるところを感じたと言う事を念のため記録しておく。氏の関心分野から言えば「霊的指導者としての麻原被告」と「テロ指導者としての被告」との整合性を求める事などは必須当然の疑問であり、また、全く経験のない分野と言う事もないはずなのではないか。そういう意味で、11年をかけた成果がこのインタビューではまだちょっと、という辺りに留まるのが惜しいと思える。それが単にインタビューの現場では話しにくかったのか、またはそれを「解き明かす事」への心理的な抵抗感があったのかまでは解らないが。

 まあ、そういうこと。参考⇒finalventの日記 - このあたりを理解してないとわからないこともある
 あまり言うべきではないが、というか言うだけ不要な問題が起きるかもだが、原始仏教というのは近代の宗教学から出てきた概念モデル、概念構成であって、そういう宗教があったわけではない。ケリュグマのイエスナザレのイエスみたいなもの。そういう方法論について仏教学者が自覚的でないのはしかたない面があるとして。まあ、中村元とか玉城康四郎とか増谷文雄なんかが原始仏教とかいうのがご愛嬌だが。まして、上座部仏教はけして原始仏教ではない。原始仏教をモデル化したとき近いモデルになるというだけで、史的というか文献学的に大乗仏教系のが新しいわけでもない。
 で、仏教なのだが、日本の場合、これが中国を経由しているが、まあ、ぶっちゃけ北魏の仏教史とか解説するといいと思うのだが(ちょっとだけ言うと大乗の乱 - Wikipedia)、まあ、なんというか仏教はそれほど平和な宗教というものでもない(ちょっとだけ言うと白蓮教徒の乱 - Wikipedia)。そういえば韓国における仏教弾圧もあまり日本では知られていないというか朝鮮人もあまり知らないかもしれない。そういう弾圧がなざ起こるのかという仏教の側の性質というのがあまり考慮されない。というか、日本の場合、仏教が早々にシンクレティズムになっていることもあり、それが仏教だと思われているふうもあるというかそういうこと。河口慧海についてはいろいろ言われるが、彼が僧籍を返上した思想性についてはきちんとした考察を私は読んだことがない。というか、彼のいう在家がどっか変質したのだろう。
 で。
 ⇒けろやん。ブログ。 - [ブログ世界] ことのは騒動2.0

・・・合掌。なんか一応日本人である私も含めて、日本人全員の問題に昇華してしまいました。

 合掌。
 このあたりは思想の領域の問題でもあり、ちょっとプロパーかもしれない。
 ワタシ的には吉本隆明とかまた出てくることでもあるが、まあ、これはアッチに随分書いた。読まれているかどうかは別として、ちょっと現状ではさらに言うことはない。