コーディングというのは職人技なので
なにかと職人技。
馴染みの寿司屋が包丁を研ぐのがうまいのと同じ。
だが、と。
⇒無精で短気で傲慢なプログラマ | これ、読みやすいの?
わたしが CGI.pm 嫌いなので、こういうソースを見慣れていないだけ?
ここにこっそり共感。
PHPもそうだが、モジュールが前提になり、言語全体がOOPに変化しているのを、どう受け取っていいのか、私みたいに古い人間はよくわからないことがある。
もちろん、車輪を再発明するなよではある。
JavaScript、ECMA Script、AS3なんかの関係でもそう。特に、クラス。
javaScriptほど誤解された言語はないというけど、しかし、LiveScriptから見ていた古い人間にしてみるというのはある。(っていうか、極論するとECMA Scriptは間違いとか言えそう。)
それをいうなら、XHTML2.0もそうだ。これでいいのか? もちろん、技術的にはいい。というか、まあ、私みたいな人にしてみると、こちらのほうが自然だ。
ただ、こうした議論になにかが欠けているような感じがする。
昔、数学についてこう考えたことがある。ブルバギとか読んでいたころで、もしかして、ブルバギっていうのは偽史なんじゃないか。ヒルベルトを読んでいた頃、もしかしてヒルベルトはとてつもない勘違いしていたのではないか。
数学の構造というとき、
1 原理的再構成
2 歴史的生成
3 教育的手順
これらは、まったく別のものではないか。と、考えた。モデルも考えたのだが、まあ、昔のことだ。忘れた。
ただ、教育的手順というのは、K&Rなどからは強く結果的に影響されたように思う。
ちょっと放言めくが、BASICとかアセンブラというのは、教育的手順としては優れているのではないか。ActiveBasicなんかでもあのブラックスクリーンのBasicはあるモデルなのだろう。
まあ、プログラムの現場にしてみると、車輪ばっかの世界で、教育的手順というのが原理的再構成に結びつかない部分は教育的に切り捨てるということにはなるだろうし、歴史的生成というのはただの趣味ではあるのだろう。
ただ、APLやJといったコンピュータ言語というのは、例えばだが、昨今の揺り返しのようなLispより、より原理的構成に近いようにも思う。