あーさらに言うと……
私は生きているのもやだなと思ったことがなんどかある。
裏切ったこともあるけど、裏切られたこともある。
人に見捨てられたこともあるし、運命に見捨てられたように思ったこともある。
このまま絶対の孤独のなかで死んでいくのかとなんどか天を仰いだことがある。
いつだったか、昔のニュースだ。北海道の上空をヘリが飛んでいたら、地上に白い石の連鎖で「たすけて」だったか書かれた文字が見えた。降りたら、人が白骨化していたというニュース。
ああ、人っていうのはそういうふうに死ぬのだと思った。
小林よしのりのどの漫画だったか、アフリカで死んでいく子供に人権なんかあるのか。国家が守らなければ死ぬだけじゃないかというのがあった。それは本当だろう。
ただ、私が納得できないのは、なぜそれが彼らであって、私ではないのか。
私が私であるというのは偶然以上の意味はない。絶対に。
神谷美恵子的問い、なぜ、彼らであって私ではないのか。
でも、ああ、もうダメだ死むぅとか思ったときの私もあった。そんなときは、なぜ私であって彼らではないのか。
そういう思いというか経験というか、そういうなかで、私は私を救わなくてはならなかった。というか、それに失敗すれば死ぬ。ま、成功しても緩慢に死ぬだけではあるけど。
で、私が私を救うということは、彼らが彼らではないという思いだと思った。
私が彼らを彼らではないという思いを持つかぎり、それがどれほど微力でも、私は私を見捨てていないと思った。
私は、率直にいうと、他者の親切というか愛というのがよくわからん。いや、歳ともにわかるという幸運はあるが。でも、そう言ってても始まらない。私のなかに小さなオリジン(創始)たる愛がなくてはいけない。愛せよとか思わない。
絶望のなかで死んでいく。それが人間の存在の条件というか必然でしょう。そうでないのは、運がいいだけですよ。私は運がよくて彼らは運が悪い。あるいは私は運が悪くて彼らは運がいい。それだけ。
そこには、ただ、がちんとした絶望だけがある。そしてその絶望は確実に私を殺す。
偶然の命が偶然の無に帰るだけかもしれない。
でも、そうではない、生きていたいなというなら、その絶望に、「やだね」と言わなくてはならない。
「やだね」というのは、私の偶然性を否定することである。
ま、こんなこと言っても通じないでしょう。
ってか、別段言うこっちゃないわけで、なんとか死ぬまで生きているだけですよ。