イチネタ とくになしとしておく。
ないことはない。
ブログが興隆すれば荒廃もひどくなる。美しい蘭の花も湿地に醜く朽ちていく。独りのシマウマは食われ、俊足ならぬチータは飢える。自然とはそういうもの。そしてそれ自体がシステム。ブログも全体のシステムと考えるのがいいのだろう、マクロ経済学のように眺めることもできるのだろう。
で、ミクロな自分というブロガーはどうであったか。
勘で書いていたと思う。あまりポリシーはなかった。
長いことネットワーカーをやっていた。八四年からだから二〇年を越えた。あらかたは経験し尽くしたかという思いと、そうでもないという思いがある。どっちか。それもよくわからない。電車内でケータイを覗き込む人々はブログなどを見ることもなく、その層はいまだに大きく、そこが全体的にシフトすることはない。ただ、少しのシフトが大きくシステムを変える。
で、お前は? いろいろ批判もされるが、書き方が嫌ったらしくなったなというのはある。もともと下品でもあるが。思い通りに書いているわけでもない。わかる人にだけわかるように書いている部分もある。
この日記については、結局、いわゆるブログに発展できなかった。トラバくらい受け付けるように(つまり可視に)しようかと思ったが、なんとなく安定した感じがしない。なのでしていない。トラバ受け付けませんというほどの意味はない。極東ブログのほうは古典的なブログのままにしている。しいていえば、ココログ側でもうちょっと強化してほしい。
こうした自分のネットへの対応がどうしてこうなるのか、自分でもなぜかわからない。勘だ。荒れの強度に屈してコメント欄ははてなユーザーに閉じた。結果、それは一義には心地よい。それでいいのかとは思う。ただ、自分の対処できるキャパというものがある。組織的な工作員に対抗できるだけのキャパは私にはない。というか、自分はすでにロートルだし、小さい。しいていえば、その小ささが自分であるとして、ネットにいるべきかもしれないなとは思う。形態的な進化過程に取り残されたシーラカンスみたいに。
匿名であることついてもあまり意図はない。誤解されるが、隠れて発言したいということはない。自分の場合は匿名というより、ただ、ネットがジョブのセクターに移行できなかったなというだけだ。もしたとえば、極東ブログ外伝のような本でも出すなら話は別だろうが、そういう気運も機会もなかった。あるわけもなかろうとは思う。
話が少し感傷的になる。
このところ、小林秀雄の五〇代の作品を読む。山本七平にしてもそうだが、五〇代にものすごい知力というか知性の火花のようなものを感じる。こうした文章が読めるだけで幸せでもある。あ、そう、つまり、自分が五〇歳を迎えるということ。来年四九歳になる。
四〇歳を過ぎて、太宰治の享年を越え、三島由紀夫の享年を越え、坂口安吾の享年も超えたか…してみるに、彼らの文学がとても若く感じられる。はてなにたむろう若い人のようなまぶしさというかそういう距離になってしまった。不思議なものだ。
なんか話がおかしいな。
ま、着実に老いていく。そして、いわゆるネットなりブログのコアな部分から自分は遠くなっていく。
年末というわけでもないし、もうしばらくはネットのかたすみにいるのだろうが、しかし、そろそろ自然消滅に向かっている自分を感じる。