それ校内暴力じゃなくて学級崩壊の話ですよね。
⇒それ校内暴力じゃなくて学級崩壊の話ですよね。
そう?
元記事⇒教師が語る 体罰はなぜ−四国新聞社
―体罰を加えると、よくなるのか。
A とりあえず、これ以上は暴れられない、というのが分かる。これが大事。タブーだが、なりますよ。
これが「校内暴力」と区別して論じるべき「学級崩壊」?
この状況の延長に校内暴力があると考えるほうが自然ではないの?
(あと単純に、校内暴力はあるけど学級崩壊してません、というのがあり? 学級崩壊しているけど校内暴力はないというは想定できるけど、その先に校内暴力があると考えるのが自然ではないのか。)
話の元⇒[校内暴力]「なぜ『キレる小学生』が増えるのか」
あいさつの指導中、急に教師に殴りかかって足を蹴(け)った(5年男)、ささいなことで同級生とケンカになり、額にひざ蹴りした(6年男)、休み時間に突然不機嫌になり、校舎のガラスを割った(同)――そんな例が報告されている。
言わないでおこうかと思ったけど、ちょっと言うと、「体罰をどう実施するか?」という問題自体が体罰の肯定ということで一括され忌避される。そこにルールなり法なりが存在しないので、最低の人間関係が露出しているというのが現在の状況なのではないのか?
子どもに対して、きちんと力でねじ伏せることができる大人はよほどのことがない限り、体罰はしない。
単純な話、ぐっと力を入れて子どもの両肩を押さえ、真正面から顔をつきあわせて問いかけることができる大人は子どもに体罰が不要なくらいの力が伝達できる。「おまえにはオレを殴れない。殴ってもその程度ならオレはこたえない。」という暗黙のメッセージは伝えられる。
低学年の子どもの暴力は一種の自己コントロール不能領域なのだから、大人が代替しなくてはいけない。そしてその自己コントロール不能域は理性ではありえないのだから、言葉なんか通じない。
愛情とかも言葉で通じるなら抱きしめてやる必要はない。だが、子どもは抱きしめてやらなければいけない愛情が伝わらない局面が多々ある。