FPN-そもそも仕事が楽しくないのはなぜか?

 ええ、ま、反論。
 楽しいか楽しくないかというのは意識の外部性の問題。つまり、意識でどんなに考えたもその内部には、なぜの理由はない。
 この外部は無意識というか身体意識。
 で、人は、というか、人生というのは、この意識の外部の大海をたゆとうているだけなのな。
 だから、人は基本的には無意識に流れて生きていくしかない。
 だから、仕事が楽しくないとき、人は充分に生きてない。
 第一、いやな仕事は続かないし、それを続けるためにはトリックを意識に仕掛けることになる。
 そうしてトリックが仕掛けられた人間は、意識の外部の大海を忘れて石化していくのだよ。
 最初はいやでもあとから楽しくなる仕事もある?
 それはある。
 だから無理してもそこを突破すべきか?
 その問いは、実は、意識というか言葉というか説明では答えられない、impossible questionだと思う。
 辛くても、ある確信が告知されていることがある。
 二人の恋人のどっちも好きとかで意識が悩んでいても、無意識・身体意識はきちんとどっちか決めていることがある。これをよじれると、人生は、たぶん、無意味に苦痛。
 そして、仕事でも、恋愛でもたぶん大方そうだけど、そうした無理の上に社会的成功が成立するとそれが一種のオブセッションというか、イデオロギーみたいになる。というのも、無意識に反した人生はつねに無意識に問われ続けているから正当化が必要になる。
 具体的な局面で、仕事とか楽しくないというとき、「おもひでぽろぽろ」じゃないけど、子供のときの思い出という神話が自分の無意識的な性向を示唆しているわけで、そういう根の部分に戻るしかないように思う。
 で、その結果、仕事だめ人間というのは、残念ながらあると思う。
 人間というのはただ存続していることが一義にあり、いくら社会的な承認(仕事の成功)とかが欲しくてもうまくいかないことはある。というか、その承認のスコープを小さく変えていくほうがいいし、その小ささは身近な人を越えてネットなどでの小ささでもしかたないのかもしれない、と、思、う。