そういえば親鸞は自らを愚禿と称した
ここに西田幾多郎先生の名文がある。
⇒西田幾多郎 愚禿親鸞
名文過ぎてなんかよーわからんかもしれない。
それはさておき。
愚禿というのは、「愚か禿げ」と読み下してしまいがちだが、禿げと「禿(トク)」は歴史的にはちょっと意味が違う。じゃ、禿げてねーのかよというと、あれだ、白頭掻短 渾欲不勝簪であり、ま、禿げは禿げかもしれないが、老いて零落しているという意味があり、今日的な、禿、というものでもない。
今日の罵倒者もだが、よく会ったこともない人に禿げ禿げと言われ、そしてそれは罵倒の文脈に置かれる。
ま、この歳だし、テストステロンも高そうだし(テストステロン自体は禿げの原因ではない)、そう見られるのもむべなるかだし、いや、ふさふさだよとも言わない。
単純にあまり身体的な特徴をここで語らないというだけだ。
と、言っても、納得されぬむきは多かろうし、ネジ巻き鳥クロニクルにあるように、禿げには、衰滅していく暗示はある。
しかし、な、人は、みな、死ぬ。
衰滅は、死のメタファーでもある。
どう死を向かい入れるかというのをきちんとレギュレートして考えさせるものでもある。
禿げとは、竹内久美子も考察しつつ結論が出てないようだが、死の明快な受容でないか。
ま、たぶん、違うか。
禿げはもてない。禿げはかっこわるい。ま、それは現実。
だから、罵倒にもなるのであろうな。
で?
いや、オチはないよ。