「死にたい」と実際死んじゃうの間にあるもの…

 よくわからん。
 が、なんとなく思うことがある。
 すべての人に当てはまるものではないのだろうが。
 「死にたい」というのは、主語は、自分だ。
 だから、その「自分」とその「自分」を支える者があるうちはまだいい。
 どうも、「間」には、そうではなく、「死ね!」という他者のような自己の意識があるように思う。
 もちろん、ネットなどではあちこちから「死ね!」が飛んでくるのだが、ま、これも同じ構造かもしれないが、ちょっと置いといて。
 心の中に「死ね!」と告げるなに者かがある。それは、正常の状態でもうっすらあるのではないか。
 普通はその者に「死ぬものか」と抗うのだが。
 が、そもそも「死ね」と告げるように、意識を分断し、疎外し、一種他の人格のようにささやくそいつはなぜそこにいるのか(自分の意識の内部になぜ)?
 私は、それは、私の隠された嘘のせいなんじゃないかと思う。
 私の意識が嘘を抱えると、私の意識は分断し、それはいろいろ語りだし、場合によっては、「死ね!」とか言う。
 だから、嘘を減らすこと。
 どうやって嘘を減らすかというと、事実自分が嘘つきじゃん私、と、気が付くこと。
 自意識というのは、その嘘に屈したくないというガンバリでできているみたいなのな。
 酒とか中毒とか耽溺とか、ようするに、それって、そういう嘘を含んだ自意識から逃げたいなり忘れたりなりという形で戦っているわけ。
 だけど、普通は、自意識に立脚するから、「死ね!」と告げる何者かと戦っているような気がするというトリックなのだろう。
 なぜ、そんなトリックが人間の意識に埋め込まれているのかというのはワケもあるだろうし、さっきちょっと書いたように、匿名者たちが「死ね!」というのは、まさに、そういう構図と実は同じ。
 ちょっと話の向きを変えると。
 人間というか自意識とかというのは、ダメダメとかでは死なないような気がする。そういう自分を処分してよいという価値観の優位というか、そういう優位性の意識の分離から起こるように思う。
 な、そんなこと言われても、今苦しんでいる人とか死を考えている人には、役にも立たないのだろうとは思うのだけど。
 ま、でも、ま、なんというか、ま、言葉につまりますな。